「国家」についてのレーニンの考察。
本書が書かれたのは1917年で、11月革命を前にした時期だったというから、ここでの理論的考察が、ことさら実践的な要請によるものだったことがうかがえる。
レーニンが論争相手たちとの議論の中で、一歩も譲らぬ気迫で論じている核心は、以下の点である。
1 資本主義時代の「議会」や「民主主義」「国家」はことごとくまやかしであり、賃金奴隷を支配する方便に過ぎない。
2 資本主義から共産主義への移行に際しては、労働者階級が資本家階級を支配するための暴力装置が必要である。それが社会主義国家である。
3 国家はいずれ「民主主義」とともに死滅する。
2は、ロシア11月革命を目前にしたレーニンにとって、高度に実践的命題だったことは想像に難くないが、現代「日本」で暮らすわれわれにとって、全くリアリティがない。
レーニンの議論の中で、21世紀の今なお全く色あせていないと感じられるのは、1の部分である。
レーニンは、純粋理論的に国家の問題を取り扱っているが、現在の「日本」において「国」といえば、多くの人は、明治時代以降に形成された歴史的な「日本」をイメージする。
レーニンなら、この「国」は、単一民族でもないのに単一民族国家であるかのように偽装し、奸計や軍事力にものを言わせて、琉球やアイヌモシリを併合した小帝国主義国家であり、その本質から目を逸らさせようとする議論はすべて「日和見主義」である、というだろう。
ここに「国」が存在することまで否定する必要はないが、この「国」がいかに抑圧的に成立し、成立当初以来の「初心」たる抑圧性を際限なく膨張させてきた事実から、目をそらすわけにはいかない。
レーニンの揺るがぬ理論的核心は、「国家とは本来、そのようなものだ」という点である。
彼やマルクス・エンゲルスは、共産主義社会の実現によって国家が消滅するという見通しを立てたわけだが、ソ連を筆頭として、「社会主義」を自称する「国家」は、社会主義の先達たちの想定とは全く異なり、「ブルジョア国家」顔負けの特権的官僚機構を発達させ、労働者・一般市民に対し抑圧的である。
社会主義の優位性は、事実をもって否定されたが、「ブルジョア国家」の優位性が証明されたわけではない。
レーニンは、マルクスの次のような言葉を引用している
抑圧された人々は、自分たちを議会において代表し弾圧する者を、抑圧する階級の中から数年に一度選ぶことを許されている !
その道程はいまだ不分明であるが、国家の死滅に見通しをつけようとした共産主義者たちの理論的苦闘には、敬意を表せざるを得ない。