増助郷に反対して明和元(1764)年に中山道周辺の村々の民衆が蜂起し、江戸への強訴を企てた広域一揆である伝馬騒動の指導者とされる武州児玉郡関村名主兵内を主人公にした、歴史小説。
秩父事件とは異なり、伝馬騒動に関する詳細な史料が存在するわけではないから、それを描くのは難しいと思う。
百姓一揆を描いた小説の代表と思われる江馬修の『山の民』は、作家の奔放な想像力と表現力によって一揆の実像を鮮やかにして見せた。
兵内を描くのが難しい理由のもう一つは、一揆の性格にもよる。
伝馬騒動は、百姓一揆のかつてのカテゴリー分けに従えば、惣百姓一揆に分類される。
兵内をはじめ村役人層が指導部を構成し、一般の百姓層やそれ以下の階層の人々がそれに加わるという形である。
増助郷反対の強訴までは、その分類にあてはまる。
しかし、10万人以上が結集した闘いのピークに至って、一揆は変質し、のちの世直し一揆的な様相を呈してき、特権的ないわゆる「豪農」層を標的にした打ち毀し闘争と化す。
惣百姓一揆の要求を受け入れたとしても、幕藩権力は必ず、けじめとして指導者を処刑しなければならない。
死罪に処せられたのは兵内だけだったが、拷問によって獄死させられた人々は少なくない。
彼らが、強訴の指導者として処罰されたのか、それとも打ち毀しの指導者と認定されたのかは、よくわからない。
兵内に対する地域の敬愛の念からして、前者の側面が強かったことはおそらく間違いない。
だとすれば、打ち毀しは兵内らの想定外の事態だった可能性もある。
この小説では、強訴を達成したあとになって、兵内が打ち毀しを思いついたという筋書きになっているが、それは不自然である。
平賀源内や小幡藩の明和事件と伝馬騒動との関連についても、筆足らずの印象を免れない。
しかし、江戸時代の民衆の歴史は、もっと知られ語られるべきである。
その意味で、読みやすく騒動の全貌に迫ることのできる好著だと思う。