民俗学的分析を通して、山村の主として精神世界が戦後に、どのように変貌してきたかを描いた書。
山村と山地に展開する農村とは異なるという思いを持ってきたが、本書にその点がかなり明確に描かれていると感じた。
自分の考える山村とは、山の恵みに大きく依存しながら暮らす村のことである。
ここでは、焼畑を中心とする主穀生産が行われているが、年間の需要を満たすことはできない。
それを補うのは、木の実・山菜・獣肉など、山から得られる食材と、他村から購入される食材である。
ここでの主たる生業は「農」ではなく、伐木・搬出・製材・炭焼き・木工などの林産業や運搬業などである。
農業生産力だけをとれば劣悪であることは間違いなく、幕藩制時代における「石高」は低い。
しかしそれは、これらの村が総じて「貧困」であることを必ずしも意味せず、林産業や運搬業の元締めクラスの人々(村落の支配者層)は、一般に思われている以上に裕福である。
以上のような村を「山村」とする。
一方、山がちの地方にありながらも、「農」を生業の中心にする村もある。
平野と山地との境界や盆地周縁部に、このような村は、広範に展開する。
ここでは、多少の傾斜地はあるが、田畑(特に畑地)ともに定畑であり、近接する林地や草場から得られる落ち葉や刈り草を牛馬に踏ませて堆肥を作る。
ここで作られる穀類や豆類は、主食になるだけでなく、商品として販売もされる。
ここでは、より広い土地を持つ地主が支配者であり、裕福な存在である。
以上のような村を「山地農村」とする。
こんな展望を持っているのだが、まだ実証してはいないので、定年退職後の課題と考えている。
本書には、恵みをもたらすが暴威をも併せ持つ山ノ神と、豊作をもたらす恵みの神としての山ノ神の二つの山ノ神が存在するということが書かれている。
前者は「山村」の山ノ神である。
人が神の領域である山に立ち入ることによって暮らしが成り立つ以上、人が神の言い分を受け入れ、神と人とがうまく折り合いをつけることができなければ暮らしが成り立たない。
そこで、山入りに際してのたくさんのタブーが生まれる。
「山地農村」の山ノ神は前者に較べれば懲罰的でなくはるかに寛容であり、恵慈的である。
問題は、村の「近代化」によって、いずれの山ノ神の権威も地に墜ち、人々が山を営利の対象以下にしか、とらえなくなってしまったことだった。
感謝の祈りを捧げながら山に入って山の幸をいただき、それを貯蔵して冬や春に備えるといった行為は、野菜でもきのこでも一年を通して安価に入手できるという現実のもとで、みごとに無意味化した。
著者は、果たしてそれでよいのか、と何度も問いかけられている。
問題はそこなのである。