零式戦闘機の開発から製作・作戦での戦果とその終末までを描いた小説。
ものづくりの魂とはどのようなものかについて、深く追究されている。
第二次世界大戦では、制空権を握った側が、戦いを有利に進めることができた。
戦いに用いられる各種飛行機の華は、戦闘機だったようだ。
戦艦に致命的なダメージを与えることができる爆撃機も、優秀なパイロットが搭乗する優秀な戦闘機に襲われれば、なんの力も発揮できずに撃墜されてしまう。
当時、中国との戦争は泥沼状態に陥りつつあり、アメリカとは対立を深めつつあった。
対米戦争はまだ現実化しないまでも、資源力・技術力に劣る「日本」が、アメリカの戦闘機を圧倒する機種を開発することは、緊急の課題だった。
常時戦争状態にあった「日本」では、企業が兵器を売り込むのではなく、軍が企業に兵器のスペックを示し、その開発は事実上、軍の命令なのだった。
画期的な空戦能力を持つ戦闘機の開発を命令された三菱重工の技術者たちに、「死の商人」の面影はない。
ともかく、堀越二郎氏ら重工の開発陣は、ほとんど不可能と思われた要求スペックを確保する戦闘機の製作に成功し、零式戦闘機は、日中戦争から太平洋戦争序盤にかけて、ほとんど無敵といえる活躍を示した。
作られたモノの価値が、戦果というきわめてわかりやすい形で示されたから、技術者にとって、その仕事は、やりがいのあったことだろうと想像できる。
しかし、太平洋戦争中盤以降、資源量に劣り、兵器製造能力に劣る「日本」は、アメリカの空爆によって軍需工場も破壊されて、圧倒的に劣勢となった。
また、高スペックな機体を自在に操縦できる優秀なパイロットが、次々に失われた。
さらに不時着した機体を入手したアメリカによって、零式戦闘機の技術は丸裸にされ、まもなく零戦への対抗技術が開発されるに至る。
戦争末期には、実用に耐えない練習機まで投入した特攻作戦が採用された。
「戦争が零戦や大和を開発させ、戦後「日本」の技術的飛躍の基礎を作った」という評価もあり得るかもしれない。
これらの画期的兵器を作り出したのは、戦争ではなく、乏しい資源や技術蓄積にもかかわらず、技術の限界に挑戦し続けた技術者の魂にほかならなかった。