宮沢賢治の作品が友人保阪嘉内を意識して書かれたことを『宮沢賢治の青春』が明らかにしたが、嘉内の生涯をたどった本は、本書だけのように思う。
『宮沢賢治の青春』は、「春と修羅」や「銀河鉄道の夜」が、嘉内の存在なしには書かれなかったことをあきらかにしている。
嘉内の存在が、賢治の創作モチーフそのものだったわけである。
法華経信仰による救済という形而上的信念に凝り固まっていた賢治に対し、賢治の純粋な想念や才能を愛しつつ、嘉内のまなざしは、ふるさとの大地とそこで働く人々を見据えていた。
理念の世界を泳ぐ賢治の当時の発想には、農をめぐる深刻な問題群など、まだまったく存在しなかった。
賢治の偉大さは、嘉内との訣別という人生最大の衝撃を時間をかけて消化し、きらめくばかりに美しい作品群へと昇華させた点にある。
それでは、同じく賢治と訣別した嘉内は、どのような人生を送ったのか。
本書が明らかにしている嘉内の壮年時代は、賢治とともに過ごした盛岡高等農林時代と変わらず、いかにして農と村の生活向上を図るかをテーマとしたものだった。
大正時代人である彼が考えたあるべき村の姿は、協同を基本とし、農業のみに偏しない多角的な「百姓」経営によって自立すべきという、現代にも通用するものだった。
地主小作制度の軛に苦しむ村の現実にあって、彼の理想を実現するのは困難であり、昭和恐慌の破滅的状況の中で苦闘を強いられたが、嘉内もまた、賢治とともにあった頃の問題意識を深めていた。
嘉内もまた、賢治に劣らず、別れた友に対し恥じることのない、誠実な人生を送ったのだった。
盛岡高農の生徒時代に、嘉内・賢治ら仲良しグループは、秩父郡小鹿野町を訪れて、地質巡検を行っている。
彼らは、自分が今、耕している田畑の近くにも立ち寄ったらしい。
田んぼの近くには、嘉内の歌碑も建てられている。