考古学の研究成果から前方後円墳の時代を俯瞰した本。
前方後円墳の時代とは、3世紀半ばから7世紀初頭までの約350年間である。
弥生時代は、西日本各地に、首長をいただく初期の小「国家」が群立していた。
これらの小「国家」たちは、相互に激しく抗争するよりも、金属器の入手など、共有する利益のためのネットワークを保っていた。
前方後円墳は、小「国家」群がさらに強固な利益共同体として統合されたことのシンボルだった。
このの北限は北関東北部にまで及び、列島中心部をほぼその圏内に包含した。
利益共同体は、大和地方に鼎立した大王たちによって運営された。
大王は、一代に一人だったと想像されるが、複数の大王が並立する場合もあったようだ。
もっとも、そうした場合にも必ず争乱が惹起するとは限らなかった。
共同の利益のためには、争乱よりむくろ、共同が優先されるからである。
地方の首長は、大王権力にゆるやかに服従しつつ、各地で独自の小「国家」を運営していた。
稲荷山古墳の主である「ヲワケ」も、緊張関係を持ちつつ上毛小「国家」と共存しており、彼が「ワカタケル」の「杖刀人」だったことを誇らざるをえないのは、上毛小「国家」に対し、自分と自分の後継者の正当性を主張しなければならなかったからである。
「ヲワケ」ら北武蔵の首長も、上毛小「国家」の首長も、大王権力を頂点とする利益共同体の一員だったから、前方後円墳を築造したのである。
「倭の五王」は、前方後円墳時代最盛期の大王であろうが、倭王武に比定される「ワカタケル」以外に、考古学的な史料が、列島には存在しない。
そのあたりが解明されれば、この時代がさらに鮮明になるだろう。
律令体制の成立によって、前方後円墳の時代は終焉する。
この画期に、継続された部分もあるだろうが、断絶された部分の方がはるかに大きそうだ。
この変化も整理してみたい。
本書は、学術的な内容にもかかわらず、よくこなれたですます体で記述され、見学可能な古墳や資料館の所在も、本文中に記述されていて、古墳ガイドブックの役割も果たしてくれそうな好著だった。