太平洋戦争における、海戦の略史。
基本的には、事実を時系列で述べたものだが、戦争指導の思想や作戦に対する批判的見解も、随所に見られる。
その批判とはもちろん、戦争そのものに対する批判ではない。
また、兵士の命を、指導者がまさに「鴻毛」のごとく扱っていることへの批判でもない。
著者の視点は、戦闘をどうすれば「日本」に有利に運ぶことができたかという点に尽きる。
そういう著者をしても、「祖国をあげて焦土と化し、老幼婦女を生贄とするも辞せない作戦計画は、民族的英雄主義におぼれ、大局の判断を誤ったものというべきであって、その生存と繁栄のためにこそ戦を賭した祖国と国民を滅ぼそうとする、これ等の計画で果して何を防衛しようと考えたのか、戦争指導者の心境は大戦中不思議の尤もなるものである」と述べさせた、本土決戦などは、まさに狂気の沙汰だったことがわかる。
戦争指導者を狂気に走らせたのは、「日本」の「国体」という幻想だった。
列島に存在した「日本」は、「近代化」に伴って実態を備えるようになった国家である。
この国家は、内在的な国民の力によって形成されたのではなく、一部エリート官僚の豪腕によってたたきあげられて、形をなした。
19世紀後半という、帝国主義が最も不作法にその正体を晒していた時代に、この「国」は登場した。
他国に食われたくなければ、強くなる以外になかった。
言論界も教育もマスコミも、国民教化を先導したから、国民もまた、エリート官僚の思うような幻想国家を信ずるようになった。
そんな「国」など存在しないのに、多くの先人が、「国のために犠牲になる」という発想にからめとられていったのが、「日本」の戦争だった。
国家と対峙しうるほどの内実を、個人が持ってなければ、国家によって自己のアイデンティティを満たすしかない人間が多くなっていくだろう。