著者のいう「犠牲のシステム」とは、「ある者の利益が他の者の生活の犠牲の上に成り立っている。その犠牲は通常隠されているが、顕在化したときには『貴い犠牲』として美化される」というものである。
フクシマと沖縄は、そのシステムを象徴していると、著者は考えておられる。
この「システム」はかつて、「階級」と呼ばれていたシステムと多少、似ている。
異なるのは、フクシマや沖縄という「地域」が、他の地域によって「犠牲」にされている点である。
階級史観に親しんできた目から見れば、この議論には、違和感がある。
たとえば、沖縄に米軍基地が集中していることによって、「本土」の民衆は、何の「利益」も得ていない。
「本土」民衆が利益を得ているという論は、米軍の「抑止力」が「日本」の安全に有効だという論を前提としているが、それは、まったくの幻想に過ぎない。
米軍基地の存在によって利益を得ているのは、アメリカの武器商人や「日本」の「防衛産業」などである。
だが、「本土」民衆にとっての犠牲は、沖縄民衆が味あわされている「犠牲」に較べれば、はるかに少ない。
正確に言えば、「本土」民衆は、沖縄民衆より少ない犠牲によって「安全」(それは全くの欺瞞に過ぎないが)を担保されているということである。
フクシマについても、同様のことが言える。
とはいえ著者は、フクシマの敵は非フクシマであるということを言いたいのではないだろう。
犠牲を生み出す構造自体を否定すべきである。
本書には、デンマークの軍人、フリッツ・ホルムの提唱した「戦争絶滅受合法案」が紹介されている。
「戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。第一、国家元首。第二、その男系親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員。ただし戦争に反対した議員はのぞく。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者」
戦争の本質を鮮やかに衝いたことばだと思う。