福島第一原発で起きた「事故」に伴う巨大な放射能汚染が犯罪でないわけがないと思っていた。
今の段階で、刑事告発が行われてはいるが、裁判所が、理の通った判断を下すかどうかは、予断を許さない。
「日本」の司法は、大地震による過酷事故の可能性を指摘する訴訟に際し、過酷事故は起きないという無責任な判決を定着させてきた。
このことをとってみても、この「国」の司法に、過大な期待など、とてもできない。
東京電力は、現状は私企業である。
東電が受けている地域独占という特権は、市場経済にあるまじき例外である。
しかも東電は、営業損失のすべてを電気代に転嫁することを許可されており、損しないことを保証されている。
だから、東電が株主にとっての「優良企業」なのは、当然である。
東電は、一般の企業とは比較にならぬ安易な経営努力で国民からカネを集め、株主と役員に分配してきた。
いわゆる「所得の再分配」の逆の機能を果たしてきたと言える。
そのカネの一部はもちろん、政治家に還元され、官僚の天下り先を提供してきた。
原発が地震や津波によって破壊され、過酷事故が起きる可能性は、繰り返し指摘されてきた。
原発利権に群がる人々は、よってたかってその可能性を過小に評価し、学校教育やテレビCMなど、あらゆる手段を弄して、「安全神話」を作り出してきた。
本書で、原発に関する「専門家」でありながら、原発の危険性を指摘し続けてきた小出氏のスタンスについて、対話を通じて佐高信氏が描き出している。
真理よりも、権威や権力が優位である社会は、危険である。
人が人であることを証するのは、志(こころざし)や良心などである。
権威や権力にそれらを売ってしまったら、その人は、何ものとして自己を認識できるのだろうか。
なんら、むずかしい話ではない。