「身土不二」とは、肉体と大地は二つのものではないという意味である。
人が、大地に依って生きているというのはあたりまえのことだが、資本の論理は、人と大地を引き剥がそうと作用する。
身土が離れると、どこかに無理が生じる。
本書にもその点が、縷々語られている。
現代人は、機械を使って体内を観察したり、各種医薬品を愛用するなど、健康に留意しているように見えるが、食べ物にはさほど気を使わない。
多くの人々に、気を使うべきは厚生省や企業であって、自分たちはあてがわれたものを盲従的に食ってればよいという信仰がある。
食べ物に関し何か問題が起きたら、それを製造した企業や監督官庁の責任を問うのは当然だが、食った本人にも責任がないわけではない。
不審な食べ物を発見したら(あるいは不審でなくても)、動物は、匂いを嗅いで、それが有毒でないかどうかをまず、確かめるが、人はほとんど、そんなことをしない。
それは生き物としての退化ではないのか。
ふつうに働ける程度の健康を維持するのに、カネをかけたり、苦行めいたことをする必要など、ほとんどないのではないか。
列島の民の肉体は、列島の環境に即応した仕様に最適化されているから、列島の環境に適合した食べ物を、ごく自然な形で摂っていればたぶん、問題ないだろう。
この列島民が、世界に冠たる長寿を誇っていたという事実が、その証拠である。
近代になって以来、経済「成長」を至高の価値とする性癖が、この国の指導者たちの脳内を占領し続けている。
かつて、山間地の主食だった雑穀類は、手がかかるとか、美味しくないなどの理由から、近代以降、コメにその座を譲った。
コメに勝る優秀な穀物は存在しないのだが、戦後、「コメを食うと馬鹿になる」的なデマ宣伝と、学校給食を使った刷り込みが行われた結果、列島の民は、コメをも放棄し、小麦食に移行しつつある。
なんのことはない。列島の民に小麦を買わせたいという某国の謀略にはめられたのである。
身土が離れた結果、列島民の身体に、さまざまな矛盾が噴出している。
もちろん、その原因は「食」にだけあるのではない。
とはいえ、身体を作っているのが「食」である以上、それが無関係であるわけがない。
本書は、「身土不二」語源や実践を、中国や韓国に求め、土とともにある生き方がいかにして可能かを探究している。
それは、個々の人間がどう生きるかの問題だというのが著者の結論だが、同感である。