著者は、松川事件弁護団の一員だった弁護士である。
1949年、戦後「日本」は一大転換点を迎えた。
著者に整理していただくことで、この年の持つ意味について、よく理解できた。
1949年アメリカ統合参謀本部が「日本を共産主義に対する防壁にする」と決定し、7月にマッカーサーが「日本は不敗の反共防壁」と述べて、対日政策を明確にさせた。
背景は、この年、人民中国が成立したことだろう。
7月に下山事件・三鷹事件がおき、8月に松川事件が起きた。
この時期に、謀略事件を演出することができるのは、占領軍(就中諜報機関)以外にはなかった。
独立以後も、同様の謀略事件は起きており、アメリカの諜報機関が支障なく活動していたことが疑われる。
国鉄や国鉄の列車にかかわる事件が多いのは、それがアメリカ諜報機関の十八番(オハコ)だったからだろう。
著者の身の回りでも、お手伝いさんが拉致・脱出した直後に怪死し、その人の親しい人物までが怪死するという事件がおきているが、著者はこの事件も、謀略の一環ではなかったかと考えている。
共産党自身にも、武力闘争路線を追求する部分があり、それは謀略にハメられかねない弱点だった。
占領軍の意図したとおり、一連の怪事件を経て、「日本国民」は、共産党を嫌悪するようになり、日本」は冷戦構造の中で、アメリカの目下の同盟国へと変貌していった。
著者は、公開されたペンタゴン文書などを使って、日本で活動した諜報部隊が、ベトナムに「転戦」した事実なども紹介している。
しかし、下山・三鷹・松川三事件の真相を明らかにする史料は、残念ながらまだ見つかっていない。
諜報機関は活動記録をほとんど残しておらず、その旧メンバーも、徹底して口を閉ざしているのだろう。