民俗学は、どのような生活や行事がかつて存在したかを記録する学問かと思っていた。
力点はいかに詳細に記録するかにあるという印象があり、学としては、記録された内容の意味をほとんど問わないのかと思っていた。
そんな見方は偏見であり、そういう浅はかな考えを持ったことは失策だったと思っている。
何を着、何を食べ、どのような住まいで、環境とどのように接し、どのような心の持ち方で暮らすかという問題は、日本列島でもっともよく暮らす上での知恵・知識の集大成である。
進歩は、古い何かを否定した上で実現されるだが、問題は、古いもののどこを否定するかである。
いま在るものを全て否定したら、原始に戻るほかはない。
そのような意味で、民俗学は最もラディカルで先鋭的な学問であるはずだった。
民俗学がすべてそのような緊張感のある学問だったかどうかはわからないが、本書の著者は、暮らしの意味を問うてやまない。
農耕も、信仰も、自然物採取も、子育ても、山里では、環境に依存しつつ環境と共生し、そうした暮らしが永続することを至高の価値として営まれていた。
市場経済の展開によって、環境と共生することや暮らしの永続性は、多くの貨幣価値を生み出すことや刹那的な享楽より低位の価値しか、与えられなくなった。
かくて、環境は収奪の対象でしかなく、環境との共生・生活の永続性は軽視され、場合によっては嘲笑の対象にさえなった。
人間は、環境の中でしか生きられないにもかかわらず、環境を軽視する心性とは、いかなるものなのだろうか。
暮らしが永続することより、多くの貨幣を求める心性も、同様である。
このように倒錯した価値観の根源は、市場経済にあるのだろうか。
それとも、変質し非人間化した市場経済にあるのだろうか。