『北八ッ彷徨』の著者による、1960年代から1970年代にかけての八ヶ岳の記録。
八ヶ岳が観光「開発」にさらされ始めた前後の記録が含まれているので、八ヶ岳「挽歌」なのだろう。
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著者は都会から山を訪れる登山者だから、地元の林業関係者や建設業者や山小屋関係者のつまらない利害関係とは縁がない。
山の現実に対する、著者の忌憚のない物言いは、当たり前の理屈ではあるのだが、正直言って、心地よい。
主稜線上の至近距離に何軒もの山小屋が建っていることや、国道299号線が麦草峠を越えていることや、山麓が別荘地として造成され取り付け道路が斜面を削っていることなどは、荒々しい岩場を構えた南八ヶ岳や静かな森に覆われた北八ヶ岳にこだわりを持って歩いてきた著者にとっては、我慢ならないものだったようだ。
かくて著者は「おそらく北八ッほど無遠慮に山が傷つけられ、あさましい金儲けの犠牲にされた山地はほかにないのではなかろうか」とまで言う。
しかしそれは、大なり小なり、どこの山にも言えることだ。
山頂ちかくまでゴンドラや自動車で登ることができるにも関わらず「百名山」だというバカバカしさが、現実なのである。
近年になって、著者は北八ツを再訪したそうだ。
著者は、北八ツの新たな現実を素直に受け入れる気持ちになったようだと書いている。
残念ながら、人は、現実を受け入れなければならない。
受け入れたくなかった現実の中にも、よきものが残されていないわけではない。
現実の中によきものを見いだすことは、大切なものを金儲けの手段として使い捨てることへの憤懣とは、別の問題なのである。
山に罪は、ない。
山に行けば、風景や風格を賞美する。
だが、今残されている環境の中で遊ばせてはもらうだけで、あとはどうなってもよいとは思わないし、山もまた社会的存在である以上、社会的なかかわりを拒否することはできないはずである。