学校における「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱が強制され、「歌わない」「起立しない」人々に対する迫害が始まってから、久しい。
この年月の間に、強制を強制と思わない人が、すでに相当部分になっていると思われる。
しかしまだ、抗う人々がいなくなったわけではないし、今後もこの問題をきちんと考えようとする人々は絶えないだろう。
「日の丸」と「君が代」は、かつて、天皇崇拝と侵略戦争肯定のエートスを作り出すためのシンボルであり、装置だった。
天皇崇拝や侵略戦争を否定した日本国憲法下で、これらを教育現場で強制するといった事態がなかったのは、当然だった。
改憲派は、日本国憲法を「マッカーサー憲法」などと罵るが、そのような人々の中にも、(現憲法の規定を越えて)天皇を神格化すべきだとか、今にも他国を侵略すべきだというまでに破壊的な議論をする人は、現状ではほとんどいない。
「日の丸」「君が代」強制は、1980年代末に、政治的な動きとして始まった。
それ以来、20数年を経て現在に至っているわけだが、結果的に見れば、社会的には、「日本人なんだから『君が代』を歌うのは当然だろ」というようなごく粗雑な「社会通念」が形成され、教育現場では、教師対管理職・教育委員会という場面でも、生徒対教師という場面でも、命令と服従という、荒廃した人間関係が実現した。
この間形成されたナショナリズムの正体については、別のところで書いたような気がするので、本稿では深入りしない。
資本による市場拡大が至高の目的なので、現下のナショナリズムは、アメリカに従属する形をとらざるをえないはずである。
憂うべきは、人間関係の荒廃だろう。
現状は、人間関係が命令と服従に終始するだけにとどまらない。
2012年8月29日には、泉佐野市長が、「市主催の式典で国歌斉唱する際、起立しない来賓を今後招待しない」(朝日新聞デジタル)と述べた。
排除されるのは、生徒と教師だけではなくなってきた。
基本的人権や反戦という信念から「歌わない」「起立しない」人間を、基本的に全て排除する時代が訪れようとしている。
思想・良心の自由は、それを表現することができて初めて、正常に機能する。
現在の事態は、ニーメラーの有名な言葉を引くまでもなく、思想・良心の自由が危機的状態にあることを示している。
基本的人権が保障されているかどうかは、少数者にどれだけ配慮できるかによって、はかられる。
「歌わない」「起立しない」人々は、現状では少数者だと思われる。
価値観のわかれるテーマについて、権力は、価値中立であることが求められる。
今は、「歌わない」「起立しない」人々をどれだけ許容できるかが問題だが、自宅に「日の丸」を掲げる人や積極的に「君が代」を歌いたいという人が迫害されるような事態ももちろん、あってはならない。
この問題は憲法問題であると同時に、教育のあり方に関わる問題でもある。
「日の丸」「君が代」とはどのような問題なのか、立たされ歌わされる子どもたちには、知る権利がある。
それらを知った上で、いずれか選択できるようにしないと、それは教育ではなく「調教」に近いものとなってしまう。
学ぶとは、自分で自分を選びとり、自己形成するという営為である。
有無を言わせない強制は、学びの本質と矛盾する。
教師は、子どもの学びを援助する仕事である。
教師が配慮すべき最も大切なことは、できるだけ多くの選択肢を用意し、自由な選択が可能になるような環境を整えることである。
これらの問題に対し、司法は、あてになりそうもない。
今しばらく、苦しい闘いを続けなければならない。