> 福島第一原発の事故は犯罪であり、その責任が追求されなければならないとする立場から、事故の構造的な必然性や、責任ある者たちの過去の言動の検証、原発のない状態の具体像について縦横に語っている。
とくに広瀬氏の憤懣やるかたない情念が、ひしひしと伝わってくる。
本書を読んでもっとも共感するのはやはり、「原子力村」に属して利権を貪り食ってきた「専門家」たちの述べてきたことの検証部分である。
これを読んでみれば、原子力発電とはそもそも、原理的に成り立ち得ない砂上の楼閣に、学問的に見せかけた装飾を加えた、妖怪城のようなものだということがよくわかる。
原子力村とは、官僚・各種審議会・大学・電力会社・原発メーカー・マスコミに巣食い、原発マネーを分け合う人々のことである。
原発マネーとは、税金及び電気料金だから、すべて「国民」から「合法的」にまきあげられたものだ。
文科省が過日、すべての小中高校に無料で配布した原発安全読本を監修しているのも、そういった連中だった。
彼らの中には、「日本」のエネルギー問題に取り組んでいると主観的に考えている人も含まれているかも知れない。
しかし、原子力が安全で持続可能なエネルギー源たり得ないことに目をふさぐことができれば、原発は会社に利権を、官僚に仕事を、マスコミには広告料をもたらし、原子力村を構成する個々人にとっては、出世の手段になる。
原発の利権構造は、ダムのそれと似ているが、破壊される環境や人間関係の規模は、ダムとはケタが違う。
その気になればダムを撤去することもできるが、原発は事故を起こさなくても処理不可能な核廃棄物を生み出し、一度事故を起こせば、そこに人が暮らすのは事実上不可能なまでに環境を破壊する。
冷静に考えれば、原発が人と共存できるはずがないことくらい、誰でも理解できる。
そこに、御用学者や御用文化人が生息する余地がある。
出世やカネのために「国民」を騙して来た者たちには、事故に対する「未必の故意」にあたる責任があるという著者たちの論旨は、じつに正当である。
著者たちのような知識は持ちあわせていないが、原発に群がる連中の言動をチェックする意識が必要だろう。