かつて農林中金や全農の指導者であり、のちには有機農業運動の草分け的存在となった一楽照雄氏の語録のアンソロジー。
膨大な著作からの書き抜きとはいえ、400ページを越える大部な本である。
氏の理論活動は、戦前の産業組合から始まり、戦後の農協に至る時代が大きな部分を占めるが、今の自分は、氏の有機農業理論に関心がある。
氏の言う有機農業とは、化学肥料や農薬を使うかどうかという問題ではない。
このあたりは、この間自分が考えてきたこととほとんど一致するので驚いている。
氏は、食料を商品として取り扱うべきでないと述べている。
その理由は、人が生きる上で不可欠な食べものは、投機や暴騰・暴落といった市場の荒波にさらされるのにそぐわないからである。
だからと言って、農産物を売買するなというのではない。
農産物は、基本的に贈与と謝礼といった感覚で取引されるべきであり、その場合の謝礼は適正な価格でなければならないとする。
贈与と謝礼なのだから、農産物のやり取りには、当事者同士のコミュニケーションが前提となる。
見ず知らずの人から、自分や家族の生命に関わる品物を贈与する、あるいはされるということなどありえない。
人は、食べものを自ら作り出す行為によって文化的存在となった。
食べものを作る行為は、人という生き物の自己証明であるとも言える。
食べものを100パーセント自給しなければならないなどと無理を言うつもりはない。
しかし幾許かの食糧を自分で賄わないで、安心して暮らせるだろうか。
原発が安全であるという話が神話(根拠なく多くの人が信じていた妄説)に過ぎなかったように、スーパーに行けばいつでも食べものが手に入るというのも、同様の妄説にすぎない。
神話が崩壊したときに、列島の民の多くは「自分は騙されていた」と感じたと思われる。
しかし、原発が安全だという説には根拠がなかったのである。
妄説を根拠なく信じてておいて、あとになって「騙された」などというのは、あまりに迂闊すぎるだろう。
殆どの人が幾許かの食料を自給するとなれば、現在の都市のような歪んだ過密社会は、成り立ち得ない。
また、食べものをやり取りするのに無言のままという無機質で冷酷な人間関係も、成り立ち得ない。
低コストだからといって、国境をはるかに越えた遠方と、食材をやり取りするということも、成り立ち得ない。
有機農法は、生産者=植物、消費者=動物、還元者=菌類という、地球生態系の基本を踏まえた在来農法で農産物を作るということにとどまらず、流通や消費のあり方を含めた食べもの作りの方法なのである。
理の通った方法であるが、さほど簡単ではない。
農作業のやり方を、場合によっては、戦後しばらくの時代にまで、後退させなければならないかもしれない。
世の多くの農業者に比べれば肉体を酷使する農作業に勤しんでいると思われる自分とて、エンジンをもつ農業機械を一切使わないでは、とても身体が持たない。
ただ、カネと石油の力によって、費消する労働力をゼロに近づけようとは思っておらず、農作業とは苦しいものだという諦念を持つことをいささかの誇りにしている程度なのである。