秋山郷の木鉢製作だけでなく、秋山郷の暮らし全般についても記されているので、興味深い。
江戸時代の秋山郷では、田はもちろん、焼畑以外の定在畑さえも殆どなかったらしい。
となれば、主食は焼畑において生産していたと見るほかない。
上納は、江戸時代初期には「秋山役」と称して檜物・札板・シナ縄を納めたとあり、のちには、「鉋役」と称される少額の金納年貢と白木の盆10枚を納めたらしい。
いずれにしても、年貢負担は、農村部と比べて格段に低かった。
山岳地帯の年貢負担の低さは、コメに換算した生産力が低位だからであって、そのことは、例えば暮らしの苦しさなどとは直接リンクしない。
トチを始めとする木の実や、渓魚や野生動物も食されていたと聞くと、「貧困」と連想するのは、偏見である。
コメしか食ったことがないからといって、コメ以外の穀物は下等だという論に、どういう根拠があるだろう。
飢えない程度の食を得ることができ、取られる部分が少ないとすれば、そこは例えば水田地帯と比べて、暮らしにくいとはいえない。
山岳地帯でももちろん、現金がなければ暮らしていけない。
木鉢を始めとする木工製品は、現金収入源となった。
例えば、平野に近い地方で箕作りが蔑視されたような、工人に対する蔑視は、地元では存在しなかったと思われる。
本書には、「木地屋」の呼び方は蔑称だから使わないという立場をとっている。
コメを食した人々の中には、そのような見方もあったようだ。
秩父郡大滝村の木地師についても、少しだけふれられている。
『秩父の木地師たち』に記された以上のものではないが、両神村出身の木地師O氏は、群馬県上野村、秩父郡日野沢村、新潟県舘腰村、山形県津川村と移り住みつつ、木鉢を作ったという。
新潟や山形への移住については、どういうツテというか、ネットワークがあったのか疑問ではあるが、秩父の木地師がダイナミックに東日本を移動していたという事例だと思う。