特攻作戦の最初と最後を担った二人の同期生パイロットへの鎮魂歌的作品。
特攻のような戦術が実現する国家的マインドコントロールの構造に関する詳細な研究が、あまり見られないような気がする。
それはやはり一種のタブーなんだろうし、マインドコントロールがまだ解けていないのも確かなんだろう。
本書のような形でその実像を見せられると、鍵は「国家」にありそうな気にさせられる。
実際のところ、たぶんそれで正しいのだろう。
特攻作戦を担ったパイロットの中には、空爆や空中戦のエキスパートも少なくなかった。
特攻は、戦争の正当性に関する議論や自爆攻撃という戦術の非人間性に関する議論を棚上げしても、非効率的な作戦だった。
それが敢行された理由はなんだったのか。
最終戦としての「本土決戦」へと「国民」を誘導するための効果装置だったと考えれば、かなり合点が行く。
多くの有為な戦闘員が自爆死するという異常な事態を作り出せば、「国民」の意識における自爆死は日常化する。
「国家」という幻想は、人にとって価値ある多くのものを破壊する。
「国家」という幻想に最も多く毒されているのは、政治家たちだろう。
小泉純一郎氏は、「備えあれば憂いなし」という平易な言葉を弄して、列島と列島民を破滅の危機に導こうとした。
しかし多くの人は、それが破滅への道だとは考えていない。
石原慎太郎にいたっては、頭の中は、戦争末期の帝国陸海軍首脳とほとんど変わるところがないように見えるが、東京都民は相変わらず、彼を圧倒的に支持している。
ネットワークにあふれる声なき一般の声には、小泉氏や石原氏のような思考が圧倒的だ。
「国家」は幻想である。
特攻作戦についても、まともな責任追及がなされていない。
結局、誰も責任をとっていないのである。
無為に命を散らすという不合理が、「国家」の名のもとであれば免罪される姑息など、決して許してはならない。