佐伯弘次『対馬と海峡の中世史』

 「どこからどこまでがウチの国のものなのに、勝手に立ち入るとはケシカラン」

 「それに対し憤懣に耐えぬようなものは『日本』人の資格はないから出てけ」

というような笑うべき言説が横行している。

 大地を作ったのは、人間ではない。

 国境はそれなりの経緯があって作られているのだが、所詮、人が作ったものでしかない。

 住むことのできるところに人は住むし、その土地に合わせた暮らしを築くのである。
 「『国』が危ないからオマエラは立ち退け」とか、「『国』を守るために犠牲になれ」などというのは、言語道断な話である。

 中世に存在した「日本」は、現在の「日本」に至る過渡期の国家であったが、現在の「日本」とイコールではない
 対馬は、民族的には「日本」に属しているから、中世「日本」の支配を受けていたのは、もっともである。

 「境界」とは本来、線ではなく、帯なのである。
 対馬は、「日本」と「朝鮮」の「境界」に含まれる世界だった。
 「境界」世界は、「日本」の論理でも、「朝鮮」の論理でもない、「境界」の論理で存在していた。

 中世の対馬は、中世「日本」の支配を受ける「境界」だった。
 島主の宗氏を始め、対馬の支配階級は、主として西「日本」を含む東アジアの海域を舞台にした交易によって利益をあげており、交易をスムーズに進めるために、朝鮮の官職を受ける人々もいた。
 朝鮮半島南部のセイ浦・釜山浦・塩浦には恒居倭(半島で住み着いた「日本」人)の集落が存在した。

 宗氏は、「境界」世界の支配者として、独自の論理で存在していた。
 「日本」は宗氏を窓口とすることによって朝鮮と関わりを持っており、宗氏は単なる外交官僚ではなかった。

 「境界」世界という微妙な地域ゆえ、ここではしばしばトラブルが発生した。
 宗氏が当事者となるケースも少なくなかったが、彼らのトラブル解決能力は、驚くべきものがあり、現代人の目から見ればかなり深刻そうな問題も、さほど時間をかけずに、どうにか解決しているのである。

 文禄・慶長の役の際、宗氏は、豊臣秀吉軍の尖兵として、侵略軍の先頭に立ったにもかかわらず、和平交渉では、「日」朝双方を欺きつつ、交渉をまとめることに成功し、江戸時代の友好関係の基礎を築いている。

 「境界」世界の存在は、「国家」という虚構をみごとにつき崩してくれる。

(ISBN978-4-634-54689-9 C1321 \800E 2008,4 山川出版社 2012,3,2読了)