内陸に、美味しい海産物の産地がある場合がある。
近江の鯖、甲州のアワビ、信州の寒天など。
本書を読むと、飛騨のブリというのも、その一つらしい。
鮮度が低いと美味くないという法則は存在しない。
人は、入手できる食材をいかに美味しく食べるかということに腐心するのである。
山の民が海のものを食するのが不自然ということもない。
冷蔵技術も自動車も存在しない縄文の昔から、山に暮らしていても、海のものを手に入れることは、可能だった。
縄文期は、山間地の方に多く人が住んでいた形跡があるのだが、彼らは当然、どこからか塩を入手していたはずである。
多くの現代人が、あそこは便利だとか不便だとか言うのは、彼らが、特殊退化しつつある生き物だとしての自覚を持っていないがゆえに、電車や自動車がないと人は移動できないと信じているからである。
列島の民は、容易に手に入るものを最大限有効に利用し、容易に手に入らぬが必要なものを交換によって手に入れ、大切に利用してきた。
運搬は苦労だったはずだが、運ぶことによって、労働への相応な対価を得る人々もいたから、生産者・運搬者・消費者それぞれが、暮らしを立てることが可能になっていたのである。
飛騨ブリは必須の品でなく、どちらかと言えばハレの日に食されたようだが、松本や善光寺平・伊那盆地などでは年を越すのに多くの需要があったという。
本書によって、富山-高山-本という、物資の太い流通路が存在したという知見を得ることができた。