「倭の五王」の時代から平安時代後期にかけての東アジアにおけるネットワークについて、通史的に述べた書。
教科書史観が切り捨てる東アジア関係史の目新しさに唖然とする。
ここは諸画期の特徴をノートしておく必要を感じる。
小国家形成期の日本列島では、国家群の首長にとって、鉄と技術および威信財を得ることが何よりも必要だった。
そして、そのいずれを得るにも、朝鮮半島との関係が必要だった。
大王とは、半島に形成された大小の国家群からそれらの材を輸入するために、倭の首長たちを代表する。顔のような存在だった。
一方、大王を経由せず、独自のルートで半島と関係を持つ首長も存在した。
442年、葛城のソツヒコが新羅と結んで加羅を侵略した。
葛城氏は、大王権力の有力な一部だったはずだ。
5世紀後半には、吉備氏がやはり新羅と結んで大王に対抗しようとしている。
6世紀に入ると、527年に、教科書にものっている「磐井の反乱」が起きている。
磐井もまた、新羅と結んでいた。
日本列島も朝鮮半島も、虚々実々のパワーポリティクスの中に存在したのであり、列島の権力構造も多元的で、近代国家から連想される「統一国家」などあり得るはずもなかった。
教科書にかつて、「任那日本府」なるものが記載されていた。
記憶によればそれは、統一国家「日本」のいわば植民地であるかのように書かれていた。
「日本」という国号が存在しない時代なのだから、明らかに荒唐無稽な説なのだが、『日本書紀』の初歩的史料批判もなしにどうして「検定」を通ったのだろう。
「任那」の実は、倭・安羅・新羅・百済などと多重な関係を持つ人々であり、『日本書紀』の倭との関係を根拠として、それが「植民地」であったかのように描いたにすぎない。
倭においてヤマト王権の覇権が確立した前後は、東アジアにおいても、中国・朝鮮半島で大きな政治的動きがあった。
ヤマト王権は、東アジアの覇者たる唐帝国に冊封を求め、また多くの留学生を送って、支配のノウハウや、仏教を始めとするイデオロギーの吸収を図った。
ヤマト王権がめざしたのは、ミニ唐帝国だった。
一方で唐に朝貢しつつ、その事実を極力軽視し、交易の方便だった新羅による朝貢を棒大に記録しようとする正史作者の意図を見据えつつ、奈良ないし平安時代の対外関係を鳥瞰する必要がある。
本書には、太宰府を舞台とした平安時代の交易の実態についても、興味ふかい事実が紹介されている。
そのあたりは、もっときちんと学んでみたいところだ。