「山本勘助と彼の周辺に関するあれこれをまとめた書。
山本勘助は、著名な武将でありながら歴史学からその実在さえ疑われた人物である。
現在、信玄の幕僚の一人だった彼の実在は証明されているが、その実像は相変わらず、はっきりしない。
画期的な史料が出現しない限り、山本勘助の実像にこれ以上迫るのは、むずかしいと思われる。
新知見がいくつかあった。
甲斐の土豪・栗原信友が武田信虎と戦って負けたのち、秩父に逃亡したという記述がある。
甲斐と秩父を結ぶ峠の中で、メインルートはやはり雁坂だろう。
信友はその後帰国したらしいが、信虎による甲斐統一の過程で秩父に逃れた土豪は、他にもいただろう。
そのような人物が、秩父の草分け百姓になっていった可能性も大きい。
甲州法度に「喧嘩両成敗」が明記されるきっかけをなしたトラブルが天文16年に起きているが、信玄は、トラブルの張本人たちに「雁坂以遠への追放」を命じている。
この記事もまた、甲斐から秩父へ人が移動した一例を示している。
雁坂峠は、生活者の道だっただろうが、修験の道がどこかにあったはずだ。
本書にも、塩山周辺に修験が何人もいたという記述がある。
彼らはおそらく、三峯神社(観音院)と何らかのつながりを持っていただろう。
甲斐と秩父にまたがる山岳地帯に、修験のネットワークが存在し、彼らが武田の領国支配にもコミットしていたかもしれない。