律令制時代のヤマト国家の対外関係における基本的姿勢を簡略にまとめた書。
律令制時代以前からヤマト国家が中国との冊封関係に消極的だった事実は意外だったが、認識を新たにすることができた。
古代国家(というかその国王)にとって、国際的な秩序関係における自己の位置は、自己認識の基底的問題だったのだろう。
東アジアの華夷秩序の頂点にはもちろん、中国が位置していた。
「聖徳太子」の隋への書簡は有名だが、太子としては、半ば確信犯的に素朴なナショナリズムを語ったものとも言えそうだ。
いわゆる「倭の五王」時代には、自らを蕃国と位置づけ、蕃国中の少しでも上の席次を懇願する立場だった。
東北を除きほぼ確立されたヤマト王権の自信が、中華帝国とヤマトを対等と思わせるほどだったのだろう。
現実には、ヤマトは蕃国なのであり、席次争いをする立場に変わりないのだったのだが。
「日本史」教科書の中で、東アジアの関係の中におけるヤマト国家の立ち位置を語られることは少ない。
しかし、蕃国ヤマトの位置は、新羅・渤海(高句麗・満州一帯)などとの微妙なパワーポリティクスに乗っかっていた。
また、インド人やソグド人、ペルシャ人、ことによるとヨーロッパ人なども列島を訪れ、さまざまなモノをもたらしていた。
当麻寺の宝物館を拝観したとき、四天王のうち一体が、ソグドないしペルシャ人系の表情をしていたのは、モデルがいたのかもしれないと想起される。
政治的関係がある程度安定的すると、東アジアとヤマトの関係は、貿易が中心となった。
今で言う食料やエネルギーのように死活的に必要な物資が存在したわけではなく、貴族が奢侈品を求めたからであるが、薬品や香木類は貴族階級には必須の品物だったようだ。
貿易の拠点はながらく大宰府であったが、古代末期以降は、大宰府を経由しない完全な民間貿易が主流となっていった。
本書は、主として文献史料と太宰府の考古資料に基づいて書かれているが、奄美・琉球など環東シナ海世界や、渤海・蝦夷・原アイヌなどを含む環日本海世界には、中国を中心とする華夷秩序とはまた次元を異にする地域秩序が存在しただろう。
ヤマトの素朴なナショナリズムはそれとして、それが「日本」であるというのは、明らかに言い過ぎである。