近現代の日本で、「健康」がどのように位置づけられてきたかを検証した本。
著者は、近代史を教えていただいた先生の一人なので、一年間の講義を受けているような感覚で読んでしまう。
今や、健康という問題は、「自己責任」に帰するという意味で、全く個人的なことと考えられているように思う。
国家や社会は、個人の健康に容喙しない代わりに、個人の健康上の問題から発生する困難についても関与しないという方向に流れつつある。
しかし、この本のような形で近代史を眺めてみると、個人の健康に対し、必要のあるときには国家が徹底的に管理しようとした時期があることがわかる。
要するに国家は、戦時など、必要であるときに、個人の健康を管理しようとするが、平時には、費用支出を伴ってまで、個人の健康の面倒など、みてはくれないのである。
日本国家が国民の健康に積極的に関与(というより干渉)していた時期に、男に対しては、より強き戦闘員であることを期待し、女に対しては、戦闘員を産み育てる役割を期待していた。
したがって、病気を持つ人や障害を持つ人など、戦闘員たりえない男は、排除どころか、抹殺の対象にさえなった。
健康という個人の属性に、国家が積極的に関与することの恐ろしさがわかる。
戦後の「健康」思想を著者は、「肉体の時代」「体調の時代」「生命の時代」と区分しておられる。
昭和ヒトケタ世代の著者が、現代を「生命の時代」と把握しておられるところが、凄いと思う。
生命を外科的に扱うことに対し、漠然たる不安感があるとはいえ、今のところ切迫した危機感は持っていない。
今の現役世代にとって、最も深刻なのは、疲労感ではないかと思われる。
それは病気ではないが、生死に関わる事態をしばしば、もたらす。
このまま働き続けることによって、死ぬのではないかという恐れを抱えながら、暮らしている人が少なくないのではなかろうか。
著者の講義をワクワクしながら聞いていた学生時代に、こういう時代が来るとは思いもよらなかった。
放射性物質が大量に拡散するという事態を前にして、本書が書かれた10年前とは、「健康」観もまた、質的な展開を遂げるのではないかと思う。
それは、「公害」と呼ぶにはあまりに深刻すぎる状況だからである。