円空の生涯を、作品・史料に即して描いた評伝。
円空が「まつばり子」(私子)で、幼い時に母を亡くしたという口碑を事実とする前提で、それをキーとして円空の生涯を解いている。
円空の青年時代については史料がなく、著者は、修験者として、放浪していたと推測している。
円空が彫仏を始めたのは、30歳を過ぎてからで、東日本に散在する作品群が、彼の足跡を証している。
生誕地に近い美濃で彫仏を始めた円空は、下北にあらわれ、松前に渡ったのち津軽に戻る。
彼が下北に出向いたのは、恐山で母や恩人の霊に会うのが目的だったと著者は推測する。
著者は、ときどきの作風によって、彫仏へ向かう円空の心のありようを探る。
津軽・松前で彼は、聖観音と十一面観音を主として、彫っている。
そのことの意味については、著者にも解けないようだ。
もっとも大きいのは、ここで円空が、れっきとした仏師としての自覚・自信を得たということらしい。
美濃・尾張一帯に戻った円空は、さらに彫仏活動を展開しつつ、法隆寺で血脈を受け、僧としての正当性を得る。
著者は、円空が白山修験でもあったとしているが、修験者である上で、正規の僧であることにどれだけの意味があるかについては、意見の分かれるところだろう。
修験者としての修行に、正当性はことさら必要でないからだ。
円空はその後、伊勢・志摩で、多数の仏画のイラストを描く。
円空らしい、素朴で明瞭なものだが、それらの絵が円空のどんなモチーフを意味するかを読みとるのは、容易でない。
円空は、末法の世において釈迦の意を伝えるのは龍女と護法神だけだと言わんとするのだという著者の読み解きは、なるほどと思えはするが、それを証するものは何もない。
しかし、その後の円空の作には、吹っ切れたような自由さがほとばしる。
濁世にあって、法を守るには、龍の力を借りねばならないという観念は、まっとうだったはずだ。
この後彼は、前衛芸術のような作品を作出する。
円空の心象に何かが起きたことは、間違いないようだ。
円空はさらに大峰山での修行・園城寺での血脈拝受(これにより修験者としての正当性を得る)を経て、関東へ旅立つ。
日光・三峰・両神を始め、関東は、大峰山脈一帯にまさる修験の盛んな地域である。
円熟期の円空は、武蔵を中心とする関東一帯に、多数の秀作を残している。
帰郷後、円空は、1695年に静かに入定した。
多くを語らず、名誉や権威を求めず、永遠の自己完成に向かって自分を磨くのが修験である。
自己完成が目的なのだから、何も残す必要はないのだが、人が喜ぶものを残すことは、法にかなう。
膨大な彼の作品群は、そのようなものだと言える。
史料が少ないのは、修験者にとって自分が生きた記録など残す必要がないからなのだが、著者の読み込みの深さには、やや不安も感じながら読んだ。