列島における仏教の濫觴期についての概説。
基本的に「記紀」の記述に沿って、古代仏教史を捉えている。
いささか気になるのは、先進的な文物は全て、「中央」から「地方」へ伝播するという見方である。
たとえば、「中央」と「地方」の両方に同タイプの出土品があったなら、「○世紀半ばには新しい○○文化が伝地方へも伝わっていた」というパターン的思考は、必ずしも正しいとは限らないから。
本書によれば、列島における初期の仏教受容は、「氏」の安泰を求める現世利益目的だったようだ。
物部氏と蘇我氏の仏教受容をめぐる対立も、在来信仰の神と渡来神である仏の、いずれが天皇を中心とするヤマト国家にとって利益があるかという問題だった。
仏教を受容すると寺院を建設しなければならず、莫大なコストを要するのだが、巨大土木工事はむしろ、権力を示威するのに好都合だから、権力者たちにとって、仰々しい仏教の仕掛けは、魅力的だった。
権力とは、民衆からモノを収奪し、民衆を自らのために働かせるものである。
権力者にとって、大きいことはよいことであり、荘厳なことはよいことである。
「仏教公伝」という用語を、本書では使っていない。
「公伝」以前に仏教を信仰していた人々が存在したが、「公伝」という用語を使ってしまうと、そのような人々の仏教信仰は、「私的信仰」という論理的におかしな表現で呼ばれざるをえないから、当然だと思う。
国家から国家へ正式に伝えるというのは、信仰が個人の心の問題である以上、ありえない。
仏教受容に積極的だった蘇我氏は、氏のために仏像を礼拝していたのだが、権力を握ってからは、権力粉飾のために、国家の力を動員して、大寺院を造営した。
国家権力を粉飾することは、自己の権力を粉飾することと同義だった。
権力の粉飾が目的といっても、そこで作られた建築や彫刻や絵画が無価値だということはなく、百済などから招かれた渡来人技術者に学びながら、極めた芸術性の高い作品が、多数、作られている。
ヤマトにおける寺院建築と平行して、列島各地で寺院が建てられている。
建立の動機やいきさつなどを示す史料が少ないため、イデオロギー的な意味はよくわからないが、やはり、権力の粉飾が基本目的だったのではなかろうか。
奈良時代になり、大寺院が続々と建立されて、教学的な深化もあっただろうが、権力を粉飾するという仏教の意味は変わらなかった。
権力者は、しばしば起きる流血の争闘の中にあって、権力維持のため、より一層小心になり、仏教の呪術性を求めて寺院を造営し、経を写させた。
平安時代初期ごろにおける、心の問題としての真の宗教は、修験の中にこそあったのかもしれない。