山本英二『慶安の触書は出されたか』

 ほとんどの歴史の教科書に出てくる、いわゆる「慶安の触書」と題された禁令の周辺に関する論考。

 この禁令が、多くの参考書や史料集に掲載されており、大学入試にも出題されている史料なだけに、これが実在しなかったことを実証した本書は、興味深い。

 「慶安の触書」に原本が存在しないなどの点から、同内容の禁令を比較検討する中で、著者は、この禁令が17世紀末に、甲府「藩」で出されたものだということを突き止める。

 百姓の生活統制の禁令として甲府以外の地においても有効な内容を含んでいるところから、甲府「藩」や甲府に関係する地域以外でも筆写され、習字手本としても使われた。

 しかし、これが「慶安の触書」と呼ばれるようになったのは、19世紀になってからだった。
 著者は、この禁令を「慶安の触書」と名づけたのは、林述斎だったという仮説を示している。

 この禁令を木版印刷し、領内へ大量に配布したのは、美濃・岩村「藩」だったが、林述斎の実家は岩村「藩」である。
 岩村「藩」主の松平氏の前の領分は小諸であり、甲府「藩」領と隣接するから、松平氏は小諸時代に、禁令の原型を入手していたのだろうという。

 江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』に「慶安の触書」を収録したのは、幕府の文書行政の中心でもあった林述斎である。
 「慶安の触書」は明治以降さらに、司法省が編纂した『徳川禁令考』に収録され、17世紀半ばに幕法として発布された禁令だという間違いが固定化されるに至ったのである。

 本書の内容は、史実の読み方に関するリテラシーを磨く上で、格好の教材となりうる。
 たいへん面白く、できれば教材化してみたい内容だった。

(ISBN978-4-634-54380-5 C1321 P800E 2003,5 山川出版社 2011,8,18 読了)