箕川恒男『村は沈まなかった』

 着工されなかった茨城県緒川ダムの顛末を記した書。

 ダムは、地域の環境を破壊し、人間関係を破壊し、暮らしと文化を破壊する。

 建設の大義は、利水・治水・発電に尽きるのだが、利水と治水は論理的に両立しえないばかりか、利水についてはその必要性がなく、治水についてはその効果が限定的で、場合によってはダムが存在することによって洪水が起きることもある。
 発電効果はそれなりにあるとはいえ、電力を徒に費消する生活そのものを見直して、水力発電そのものを不要にすることは可能だろう。

 だから、ダム建設に積極的な意味はほとんどなく、その費用を含めて失われるものは限りなく大きい。
 そういう意味で、ダムと戦争は酷似している。

 ダムについて否定的な議論が多くなった背景には、ダムのこうした本質が知られるようになったこととともに、公共事業という形で、国費を費消して土建会社と政治家と役人が甘い汁をむさぼる一方で、国家の債務を際限なく膨らませることに対し、一定の反省が出てきたからである。

 ところが、ダムは、建設されることによって失われるものも大きいが、計画されたのち建設されなくても、大きな損失をもたらす。
 ダム計画によって水没予定地などに該当する人は、自宅の移転を検討したり、子どもの進路に移転を考慮したりしなければならない。
 補償金を前提として、将来の人生設計を考える人もいる。

 ダム建設が中止になると、それらが根本から覆ることになる。
 進むも地獄、退くも地獄である。
 苦しみの根源は、一義的には、ダム計画にある。

 ダムは環境・歴史・人間関係などすべてを破壊するのだが、住民の中には、本音ではダム計画を否定しきれない人もいるはずだ。
 ダム建設予定地での暮らしが順調であれば、ダムに賛成する人など、皆無だろう。
 しかし今、山間部での暮らしに、明るい見通しはまったくない。

 仕事も少ないし、学校は廃止されて子育ても困難だし、農業や林業ではとても暮らしていけないし、何もなくても隣人たちは櫛の歯が欠けるように集落から出て行く。
 山里で暮らしていけない世の中だから、いずれここから脱出したいと思っている人にとって、目の前にぶら下げられた補償は、渡りに船となる。
 根本問題は、ここにある。

 ムダとわかっていても、ダムを作った方がよいのか。
 地域から抜け出したい人にとっては、大きな問題でないかもしれないが、ダムができさえしなければ、心のよりどころとしての山河の姿だけは失われない。

 問題は、これに価値を見出しうるかどうかだろう。

(ISBN4-931442-20-X C0031 \1800E 2001,2 那珂書房 2011,3,28 読了)

月別 アーカイブ