学校という世界は、普通の人には理解できない一種独特の論理で動いているのだろうと思う。
この世界を構成しているのは、とりあえず生徒と教師である。
学校の構成メンバーはこの二者だけではないのだが、コップの中の住人には、自分たちしか見えない。
この世界に長く身をおけばおくほど、一定の自戒の意識を持っていないと、世界とはコップの中のことだという意識に沈む危険がある。
自戒の意識の根拠となるのは、ひとつは、教育学の理論ではないかと思う。
コップの中の論理はコップの中でしか通用するものでなく、一般的には、教育学の普遍性が優先するという意識は、必要だろう。
しかし、教育現場というより政治や社会において、教育学はほとんど無視されているも同然である。
もうひとつは、社会の視線を意識しつつ、ものごとを判断するように心がけるということだろう。
コップの中の住人にとっては、それさえ容易なことではない。
この本で問題とされているのは、教師の権力性は合理的かどうかということである。
正しい権力性なら合理的だという論理は、普遍性がない(前提条件が崩壊すれば崩壊する)から、意味をなさない。
経験的にも、教師の権力性が有用だとは思わない。
しかし、学びという目的を共有している場所であるはずの学校に、秩序は必要だと思う。
秩序を維持するのに、権力を用いるか用いないかはともかく、現場では、それぞれの考え方に従って、秩序維持に努めるのは、必要なことだと考える。
教義をめぐる論議に、どれほどの意味があるのかという疑問も感じる。
(ISBN4-7952-5419-2 C0037 \1300E 1999,11 ふきのとう書房 2011,2,23 読了)