雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』

 フランスあたりで、学生・高校生が、学費や年金問題など、さまざまなテーマで行動を起こすニュースをしばしば目にする。

 それは、行動することに対して、日本ほど抵抗感がないからだろうと思っていた。

 そして今、イスラムでも中国でも、街頭に出た人々によって、歴史が作られつつある。
 日本でそういう動きが見えないのは、支配者が徹底したマインドコントロールによって、国民を馴化しているからだろうと思っていた。

 このあたりの展望については、かつて書いたが、事態は単純でない。

 特権層にとって、いかに被支配者を分裂させるかが、支配戦略の基本になる。
 最下層は、なんら報われない人生を送っているから、もちろん、そうした現実を憎悪しており、変化を求めている。
 そのポテンシャルは、特権層にとって不安定要因である。

 特権層にとっては、最下層の憎悪が自分たちに向かわず、テクノクラートに向かうのが理想なのだ。
 江戸時代の民衆の不満が公儀に向けられず、代官に向けられたように。

 そうした戦略は、一見したところ、たいへんうまくいっている。
 テクノクラートへの憎悪は、例えば「公務員バッシング」という形で実現している。
 ネットワークは、官僚や政治家や教師・警察官その他の公務員を罵倒する書き込みや、高齢者を罵倒する書き込みに満ちている。

 これら膨大なつぶやきを担っているのは、最下層の人々なんだろうと想像している。
 おそらく現実の社会では、自由にモノの言える立場にない彼らにとって、自分の存在を主張できる場所は、限られているのだ。

 1960年代から1970年代にかけて、高度経済成長を背景として、社会保障に前進がみられた。
 これはもちろん、国民の側の運動があったおかげなのだが、この成果は単に力関係によって得られたものではない。
 公共事業に多大な経費をつぎ込み、給与を増やし、さらに社会保障にも予算を回すことができるパイが存在したから可能になった部分もあるし、資本主義国は社会主義国に対し、社会保障面での優位性を示す必要もあった。

 経済的・制度的成果は、闘うことによってのみ得られたわけではなかったのだが、テクノクラートを中心とする「革新勢力」はその点を誤解しているようだ。
 組織を守ろうとする形での闘いは、組織されない人々を疎外する結果となる。
 それが、被支配者分裂の病巣となる。

 打倒すべきは、特権層である。
 闘いの主体が、組織されない人々を含めたゆるやかなネットワークである必要があったし、これからでも、そのような闘いがあるべきではないか。

 雨宮氏の議論は、必ずしも理路整然としてはいないが、閉塞状況を打開する鍵に満ちている。

(ISBN978-4-334-03461-0 C0236 \760E 2008,7 光文社新書 2011,2,21 読了)