修験道の歴史についてのかなり詳しい解釈書。
わかりやすい本だが、修験道を教義と捉える見方への疑問が強くなっているので、随所に違和感を感じながら読んだ。
それはこの本の記述がおかしいということでなく、自分の中にある、修験道解釈への違和感なのである。
修験道は宗教だが、修験は宗教でないと考えている。
生きることの究極の目標は、世界を把握することだと考える人がいる。
高みに登れば周囲の展望が開けるが、世界の何たるかを把握することなど、できない。
人は食わねば生きられないのだが、生命とは要するに、食物連鎖の総体である。
食うものはいずれ、食われることになる。
食われることによって、食う資格が与えられる。
自分の生命を提供することが、生きる資格を担保する。
自己の存在を全うするには、自己否定に至らねばならない。
自己否定によって自己を完結させた行者が、無数にいたと思われるが、彼らの目的は自己の完成にあったから、集団を形成する意味はなく、教団化はありえなかったし、教義の体系化もなかった。
自己の完成をめざすこのような思惟は当然、孤独な作業でなければならない。
他者との関係を断つことのできる場所は、山上あるいは洞穴などである。
こうして、無名の求道者が山野を徘徊した。
これは列島における、哲学の萌芽だった。
求道者は、列島における科学の萌芽でもあった。
世界をミクロに眺めれてみれば、世界を構成する因果関係が少しずつ、見えてくる。
それは科学の始まりであるが、人間の社会に気を取られている人々は、世界の因果を解明しようという動機など持ちえないし、そんな暇もない。
権力を望む人や富を望む人、さらに日々のなりわいに忙殺されている人には、世界を眺めている余裕など、ない。
世を捨てない限り、世界を把握するなど、不可能だった。
山にこもって、自然を眺め続けることによって、生命の本質や因果関係が解けてくる。
因果を知ることによって、世界を多少なりともコントロールできることができる。
例えば、薬草の効能を知ることは、医術の能力を持つことだったし、観天望気を知ることは、天候予想の能力を持つことだった。
こうした能力を他者に役立てることは、人として真っ当なことだったし、一定の返礼もあっただろう。
山にこもる人々にとって、里とのつながりは不可欠だったが、里人にとっても、彼らは必要不可欠の存在だった。
彼らにとって山で自然を眺め、自然理解力を高めることは、至福の趣味であるだけでなく、自己存在の根拠を明らかにすることだった。
彼らの知と近代の科学の相違点の一つは、体系化をめざさず一般化をめざさない点だった。
彼らの知は基本的に、その人間かぎりで完結するか、ごく親しい第三者に口伝されたのだろうが、江戸時代に本草学その他の形で書物化されるまでに、莫大な知が蓄積されたことが想像される。
傑出した知恵者ともみなされていた求道者が、既成の信仰によって自己の行為を理論化するのは、思想的には一種の堕落でもあったが、彼らの営為が社会的に公認される上で、一定の役割を果たした。
それが、修験道である。
役の行者は実在の人間だろうが、人々が役の行者と呼んでいるのは、多くの求道者の人格を統合した架空のカリスマであった。
役の行者自身は、何の言葉も残しておらず、彼の事績について、断片的な伝承が残っているだけである。
彼がなしたのは、
1、鬼神を使役したこと
2、妖術を用いたこと
3、葛城山と金峰山に橋をかけよと鬼神に命じたこと
4、蔵王権現を感得したこと
等である。
1と2は連動するから、容易に理解できよう。
妖術とは、山岳を自由に飛び歩く技術・体力や、透徹した自然観察によって会得された知恵のことであり、鬼神とは、役の行者を尊敬する山の民だろう。
葛城山と金峰山の間の橋とは何かは、不明。
在来神(神道)や仏教などは、外国思想の単なる輸入だったり、大王家による支配を合理化するために案出されたものであり、日本の自然的現実から想出されたものでない。
それらは、自己弁護のためのイデオロギーに過ぎない。
役の行者は、あえて仏教神を一つ一つ否定して、蔵王権現を想出したのである。
シンボルは、思想伝達の手段だから、蔵王権現というシンボルを想出した瞬間に、役の行者は修験道という宗教の創唱者となってしまった。
自己の完成に思想伝達を優先したとき、修行が甘くなるのは、無理もない。
ここに、権力者たちがすり寄る余地があったのであり、のちに民衆的な広がりを結果する土壌となったのである。
とりあえず、今日はここまで。
(ISBN978-4900594-92-X C0315 \1400E 2006,6 ウェッジ 2011,2,16 読了)