光永覚道『千日回峰行』

 千日回峰行とは、比叡山における修行の一つで、百日連続して、決められたコースを礼拝するという修行を都合1000回行うというものである。

 比叡山は天台宗の総本山だが、同時に仏教に関する総合大学のような存在だったようだ。

 歩くのは、自然観や人間観・自己の精神を磨くのが目的だろう。
 歩くことはまた、苦行でもあるから、それによって体得した霊力で、加持祈祷を行う能力も身につくことになる。
 バックボーンに体系化された世界観や理論体系があるとはいえ、論理回路は、修験道と同じである。
 この行者の話を読むことによって、修験が何をめざしているのか、かなり理解することができた。

 話者(この本はインタビュー筆録である)によれば、「天台宗には一木一草すべてに仏性があるとし、それに仏性を感じなければいけない」という考え方があるという。

 輪廻転生の思想は元来、食物連鎖の構造を宗教的に把握したものと思われる。
 食われるものが存在して、食うものの生命が成立する。
 食うことは罪悪である。この罪は、償われなければならないが、どの生き物も、食われることによって、これを償う。

 食うものは、食われるものに対し、感謝の意を表さねばならない。
 世界を構成する万物すべてが、食べ、そして食べられる関係の中に存在する。ただ一種、"人間"を除いて。
 山路の路傍に存在する万物に仏性があるというのは、事実なのである。
 その事実が見えるようになるということは、生命が還流するこの世界を把握できつつあるということでもある。
 山路の路傍に存在する万物に合掌する心ばえを持つことができるということは、食うことの原罪が自覚されつつあるということである。
 同じ遠い道を1000日間歩き続けることによって、世界に存在する仏性を見よ、というのがこの行の趣旨なのだろう。

 比叡山明王堂には、回峰行の途中に、参籠という行がある。
 話者によれば、堂に9日間籠って、断食・断水・不眠で、ひたすら読経・真言に明け暮れるという、厳しい行である。
 これは、原罪の自覚を身体に刻み込むためだろう。

 比叡山は仏教寺院だから、これらを仏教理論で説明するが、これを説明するツールが、仏教でなくてはならないわけではない。
 それが修験であっても同じことだし、そもそも体系的な理論でなければならないわけでもない。

 里では、人間の矮小さを感じることのない人も、山に行けば、岩や滝などのパワーに驚き、謙虚になることができる。
 里は人間の気が充満しているが、山は万物の生命の気が躍動している。
 山の宗教とは、そういうものだったのではないかと思う。

(ISBN4-393-13317-X C0015 P2060E 1996,3 春秋社 2010,8,20 読了)