五味文彦『源義経』

 源義経の実像を探った本。史書なので、史料から義経がどのように生きたかをあとづけている。

 中世における軍団編成についての理解が不十分なためか、史料が不十分なためか(多分その両方が起因している)、源頼朝の戦力動員の論理がいま1つ、はっきりとわからない。

 戦国時代であれば、恩賞は、とった首のレベルや数によって決定され、戦功を記録する事務能力もそれなりにシステマティックなものがあったと思われる。
 平安時代末であっても、武士団が戦闘行為に参加する意味は、領地の安堵・新恩・に尽きたはずだから、頼朝にもほぼ完成されたシステムが存在したと思うのだが。

 でなければ、終始鎌倉に居ながら畿内や西国での戦闘を指揮するなど、できたはずがない。
 平安末は、戦国時代ほど実力本位の世界ではなく、タテマエがある程度モノを言う世界だったのだろうか。

 平氏を京都から放逐したのは、木曽義仲だったのであり、義仲を滅ぼし、平氏を西国に追いやりかつ、最終的に滅ぼしたのは源義経だった。
 物語にいうように、梶原景時とのトラブルがあったにせよ、最前線で戦闘の指揮をとった将軍の声望が高くなるのは、当然だっただろう。

 それにしても、頼朝の勘気を蒙ったにせよ、義経が一気に凋落し、お尋ね者化する論理が今ひとつわからない。
 頼朝の有していた関東の権力基盤が、絶対的なほど強力でなければ、このようにかんたんに義経を放逐することはできないだろうからである。

 お尋ね者化した義経が依存したのは、修験者のネットワークだったのではないかということが、本書には、記されている。
 義経は、吉野で姿を消したのち、奥州平泉に出現する。
 頼朝が絶対的な権力をもつ関東を通ったのでなければ、越後を行くか、海上のルートを通るしかない。
 陸上のルートであれば、修験者に手引きされない限り、奥州に抜けるのはむずかしいだろう。

 いずれにせよ、源義経は、オモテの歴史には現われない人々と行動を共にし、彼らの助けによって平泉に到着した。
 義経が藤原泰衡に裏切られたのは、泰衡が頼朝の圧力に屈したためか、オモテの歴史に現われない人々から見放されたための、いずれかだろう。

 ずいぶん見えてきたとはいえ、源義経の実像はまだ、鮮明ではない。

 本書を通じて、源頼朝の権力の大きさとともに、彼の冷酷さも際立っていると感じざるをえない。
 物語の上でも、冷酷無比な人物なのだが、史書からもそうした性格しか読みとれないのは、どういうわけだろうか。

(ISBN4-00-430914-X C0221 2004,10 岩波新書 2010,6,29 読了)