西郷隆盛の周辺から見た明治維新。
研究書ではなく、歴史ノンフィクションである。
傑物ではあったが、明治政府により反逆者として否定された西郷の周辺を洗うことで、明治維新は、教科書にあるのとは全く異なる姿を見せる。
まずは、奥羽列藩同盟と戊辰戦争が語られる。
ここで西郷は、薩長側の軍師として登場する。
戊辰戦争は、朝敵とされた東北に、癒しがたい傷を残すのだが、庄内における西郷は、情と理を備えた度量の大きな人物という印象を残す。
薩長にとって戊辰戦争は不可避の戦いであり、中でも西郷はそのための謀略戦の中心人物であったのだが、趨勢がほぼ決した状況で東北側を徹底的に叩くことまでは、しなかった。
おそらく、新政府樹立後の新国家建設をにらんでいたのだろう。
西南戦争時に東北の多くは、薩摩への復讐に燃えたのだが、庄内では、西郷軍に呼応こそしなかったものの、二人の若者が西郷軍に投じて戦死した。
西郷に関わる史実でもっとも胡散臭いのは、赤報隊の顛末である。
西郷が操った官軍の別働隊だったはずの赤報隊が、偽官軍の汚名のもとに処刑された一件に、西郷はどのように関わっていたのか。
いずれも功成り名を遂げた時代になっても、板垣退助や大山巌らが口を割らなかったのは、西郷(あるいは別の官軍上層)が赤報隊を見殺しにしたからか、もしくは最初から使えるだけ使って始末するつもりだったかのいずれかだからではないか。
戊辰戦争時の官軍が、血に汚れた謀略の上に成り立っていた事実を証言するわけにはいかないだろう。
征韓論から西南戦争に至る時期における西郷の思想的変遷については、まずは歴史家の研究に接してから考えてみたい。
いずれにせよ、西南戦争が起きた明治10年ごろとは、新国家がどのように転形されるか、まだ未確定な時代だった。
秩父困民党が掲げた「新政厚徳」の旗は、西南戦争時の西郷軍の旗だった。
「自由自治元年」の盟約書に、西郷旭堂なる正体不明の人物も登場する。
まだ明らかになっていない事実が、隠されているはずだ。