現代人として生きることの意味について考える本。
言うまでもないことだが、「ニート」と蔑称されている人々に気合を入れようとする本ではない。
著者はカント研究者とのことだが、働くにせよ働かないにせよ、自分の現状を肯定するにせよ否定するにせよ、思考しないことや思考を停止することを批判する。
この本が出たのは2001年当時、この国には、バブル崩壊以後、膨大なロスト・ジェネレーションが滞留していた。
彼らの世界は過酷そのものであり、努力によって局面を打開できるような、生易しいものではなかった。
にもかかわらず社会は彼らを怠け者視し、面白おかしく「社会問題」化した。
彼らにとって最大の不幸は、反抗する牙を抜かれていたことだったと思う。
1992年に学習指導要領が改訂され、子どもたちは「意欲・態度・関心」そのものを評定されるようになった。
よい評価を得るために、子どもたちは「意欲」的であることや「関心」持っていることを教師にアピールしなければならなくなり、態度がよいことをアピールするために、教師の意図するところをすばやく見抜き、指示に先んじて意図通りに動く超従順な人格を形成せざるを得なくなった。
こうしてくり返し飼い慣らされた彼らから、よりよい社会を構想し建設していこうという発想は生まれにくい。
彼らは、社会の中のルール違反者を摘発し攻撃することに熱心だが、それは自分たちの可能性を自縄自縛することにしかならない。
安全圏にいる(と自分では信じている)世代からは、「怠けている」「チャレンジ精神に欠ける」となじられ、蜘蛛の糸をつかんだ(と自分では信じている)同世代からは負け犬視され、政治家からは「国を危うくするものである」くらいに問題視されたロス・ジェネは、沈黙するしかない。
そのロス・ジェネがくずおれたり、諦めたり、自棄的になったりせず人間として生きていくためには、考えるしかないのである。
なんのために働くのか、自分とはなんなのか、生きがいとはなんなのか。
努力すればなんとかなるとか、人間あきらめが肝心だとか、わかりやすい説明はことごとくインチキだと思って間違いない。
世界はそう簡単に割り切れるものではない。
救われなさや割り切れなさと真正面から向きあい、考え抜き、判断できる思考主体へと自己を鍛えるべきだと著者は説く。
そのための人間関係も大切だろう。