修験道の教義をわかりやすく説いた書物を探しているのだが、なかなか見つからない。
この本を読んでみても、うなづける点はもちろん、多々あるのだが、目からウロコというわけにはいかない。
いっそ、自分で教義をまとめてしまおうかなどとと考え始めている。
宗教も哲学も、カテゴリーを使って理論を説明する。カテゴリーは理論をわかりやすく説明するツールだが、カテゴリーを理解するのに苦労しているようでは、教義理解までの道は遠い。
修験道の目的も、他の宗教と同じく、生きる意味の探求だと思う。
修験道が教義や修行形態をある程度整えたのは、役の行者の頃だろう。
役の行者が蔵王権現を見る前に、弁天や地蔵が現出したという伝説がある。
役の行者に象徴される初期修験者は、外国から移入されたカテゴリーで修験を説明することはできないと考えたのだろう。
修験者たちは、山岳に起居して岩場を登降したり、滝に打たれるなどの修行を行う。
岩は、巨大な圧力と時間の所産であり、動じないものの象徴であり、登降には危険と困難が伴う。
滝は、岩をも穿つ無限の圧力を象徴する。
かくて、岩や滝には、人間を超越した霊力が宿っていると見る。
修業によって、岩や滝の無限な霊力に近づくことができるかもしれない。
古代人は広く、罪の観念を共有していたらしい。
人にとって主な罪は、所有の罪であり、安穏に生きることの罪であった。
持たずに生まれていながら、長ずるに従って所有物や財産を増やすことには、うしろめたさが伴っていなければならなかった。
山岳暮らしは、財産を無意味化する。すなわち所有者を浄化する。
山岳では、食べ物を得ることさえ容易ではないから、山の恵みに感謝する心や、山や自然現象に対する謙虚さが、日常不断に求められる。
山や自然現象への感謝とは、すなわち生命体としての地球への感謝である。
感謝するとは第一義的に、心の問題である。
(例えば呪文のような)極秘の手続きを知りさえすれば、心に邪気があったり、自然に悪態をついても大目に見てもらえるというような安易さは許されない。
巨岩や滝に象徴される地球の無限の力の前で、人間など、塵芥程度の存在でしか、ありえない。
修行とは、そのことを徹底的に自覚する、精神的な営みなのである。
修行とは、自己と人間の卑小さをどこまで自覚できるかという問題だから、自我との、徹底的な闘争が必要とする。
自我の滅却の極致は、自己の滅却である。
入定・捨身・補陀落渡海は、自己滅却の方法である。
自己を滅却することによって、人は、生命体としての地球と一体化することができると考えられる。
修行は、自己との戦いであるから、社会的な意味を持たない。
修行の目的は、自己の完成=自己否定なのだから、他人にとっては、毒にも薬にもならない。
しかし、人が社会的存在だということは、なんとしても否定できない。
修行が、自分以外の人にとっても意味あるものであるならば、自分の生命は自分一己だけのものではなくなるのである。
修験道が、教義めいたものを備えるようになったのは、それが社会的な意味を求め始めたということなのだろう。
密教や神祇信仰の教義に登場する諸神仏=シンボルは、上のような理論を説明するためのツール化されたわけだが、必ずしも修験道のオリジナルではないから、理論上の無理が発生するのはやむを得ない。
蔵王権現とは、修験の信仰を説明するために、役の行者が見出したシンボルである。
蔵王権現を基軸にした修験理論の構築が必要だと感じる。