富士講六世の行者、食行身禄の伝記小説。
富士講は修験道とは異なり、浅間大菩薩を信仰する。浅間大菩薩とは、富士山そのものである。
信者・行者にとって、富士山とは、生命体としての地球そのものと考えられる。
ひとりの人間もまた、生命体としての地球の一部だから、自分が地球=富士山の一部であることを、重々自覚して生きるべきだというのが、富士講の基本思想である。
だとすると、富士講の考え方は、修験道と相似形だと言える。
修験道は、富士山に限らず、目の前に存在する険しい岩場や山岳を、すべての根源である生命体としての地球の一部と考え、それを最終的には、各自の生き方に収斂させていく哲学である。
加持祈祷や現世利益を追求するのも信仰といえば信仰だが、少なく払って多くを得ようとするこれらの信仰から、胡散臭さを消し去ることは不可能だ。
得たいならば、払わねばならない。
地球上の生命の一部としての自覚というラディカルな考え方をつきつめていけば、生命を代償にしなければ、生きることの意味を自分のものにすることなどできないという結論に達する。
富士山で入定した身禄の生き方がそうであるし、捨身や補陀洛渡海や断食などに生命を散らせた名もなき無数の修行者も、多くを得るための代償を払ったのである。
一見、論理矛盾のように見えるが、生命を投げ出すことによって得られるのは、生きる意味である。
人にとって、哲学の究極の目的は、その問題である。
生きる意味とは、本人にとっての生きる意味であるし、それを得た瞬間に生命は絶たれているのだから、それを他人に伝達することはできないし、そもそも伝える意味がない。
だから、行者たちは、自分の思索を形にすることをしなかった。
身禄には多くない著作と、入定直前のつぶやきが残されているようだ。
しかし、弟子・信徒を持つこと自体、山岳信仰の本来のあり方とは異なってしまうから、山岳信仰にとって、教義を体系化することもまた、論理矛盾なのである。
小説であるため、どこからどこまでが著者の創作なのかよくわからないのだが、山岳信仰について、歴史書以上に示唆を得られる本だった。