熊谷栄三郎『新ふるさと事情』

 風前の灯とも言える山村暮らしの聞き書き。
 対象は主として、丹波・丹後・湖北だが、聞取りが1981年頃とのことなので、それから30年がたとうとしている現在、ここに紹介された人々の多くは、もうご存命ではないと思われる。


 著者の視点は確かだ。
 山村が滅亡に向かっているのは事実だが、そこで失われつつあるものは、列島の民が永年かけて積み上げてきたものであり、日本列島で暮らしていく上でかけがえのないものばかりである。

 失われていくこれらの技術や知識は人間的自然に属し、これらに代わって得られる安易で便利な消費生活は、人間にも自然にも優しくない。
 山村の崩壊は、列島で暮らす人間的な力の崩壊、人間性の後退である。

 たくましい人間力を残していた方々が高齢ながらまだお元気だったのが、1980年初頭という時代だったのだろう。
 私が社会に出たのがその頃だったが、秩父地方はまだ、見渡す限りの桑畑が残っていた。
 今、そのような風景はもう、見ることができない。

 文章が巧みなので、とても読みやすく、胸に落ちる記述が随所にある。

 例えば、「山奥はひとりで何でも出来ないと生きていけない」という言葉。
 山奥でなくても、人間はほんらい、何でもできなくてはならないはずだが、近代社会は分業によって成り立っている。
 例えば、パソコンしかできなくても生きていけるだけでなく、パソコンの知識や技術が突出して優秀なら、多くの収入を得ることができる。

 分業化は近代化の前提であるが、史的唯物論がこれを「社会の発展」と特徴づけ、「発展」は是も非もなく善であるというゾルレン信仰と相まって、分業化による人間的諸能力の退廃は、問題にされなかった。

 発展するのは社会でなく、人間でなければならない。
 マルクス主義哲学は、社会発展(による社会主義社会の実現)が人間的諸能力の開花を保障すると言い募ったが、そんな話にはなんの根拠もない。

 人間の能力は、自然的制約の中でしか発揮できない。
 エンゲルスは、人間が人間化した原点が手仕事にあると述べた。
 付け加えれば、現実の手仕事はひとりでできるが、それらの仕事が意味を持つためには、人間の関係性が不可欠となる。
 人間の仕事は、人間関係の中で意味を持つから、人間関係力も人間的能力の重要な構成部分である。

 さて、このような人間力は、今やほぼ壊滅した。
 今の人間は、自分ではなにもできないから、電気(エネルギー)や国家に依存してしか、生きられない。
 依存せずに生きることができないから、人間としての尊厳(プライド)さえ、捨てなければならない。
 現代人は、どうしようもない隘路に陥っていると私は思うのだが、一般にはたぶんそんな自覚さえなく、国家がしっかりしていれば安泰だなどと、だらしない気分でいる人が多いのだろう。

(ISBN4-915511-04-9 C0025 \1400E 1982.9 朔風社 2010,3,11 読了)