不破哲三『北京の五日間』

 中国の歴史にとって毛沢東が、混乱・混迷をもたらした疫病神だったことは疑いない。
 この党の独裁者が毛沢東だった故に、中国共産党が権力を握ったことが中国民衆にとって幸福だったかどうかも、保留せざるを得ない。


 中国共産党は今、毛沢東の悪行の数々を、ある程度冷静に認識していると思われる。
 しかし、毛沢東を自由に語ることはおそらく、許されていない。
 なぜなら、毛沢東を完全否定することは、中国共産党の支配を否定することだからだ。

 将来、毛沢東を歴史的に位置づけるための史料収集や基礎的研究は、行われているだろう。
 『周恩来秘録』は、機密史料を駆使して中国現代史を描いた好著だった(著者はアメリカに亡命してこの本を執筆した)が、毛沢東に関するそのような研究が公にされるのはいつになるか、全くわからない。

 中国共産党の指導部が、中国現代史をどのように総括しているかを記した本を読んでいないので、はっきりしたことは言えない。
 この本と、同じ著者の『日本共産党と中国共産党の新しい関係』は、日本共産党の指導者が中国の指導者と交流して得た印象などが中心なのだが、中国指導部が語った言葉の断片が書かれているので、中国の自己認識を多少、理解することができる。

 1998年の時点で国家副主席だった胡錦涛は、「マルクス主義の原理を中国に適用し、『中国の特色を持った社会主義』を建設する」と述べており、これを「訒小平理論」と称している。江沢民も同様の発言をしていた。
 今の中国共産党の指導理論たる「訒小平理論」とは、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を踏まえ、現代中国の現実から社会主義への道を模索したものだという。

 文革の亡霊だった「四人組」が打倒されたしばし後に権力を握った訒小平が進めてきた路線とは、「改革・開放」「四つの近代化」および市場経済化と共産党独裁を並行させるというものだった。

 訒小平が、国家建設の要になお、「毛沢東思想」を据えようとしている意味はなんだろうか。
 意地悪い見方をすれば、毛沢東思想とは、天安門事件に象徴される共産党独裁の思想であり、国家と党を批判しようとする者を恐怖によって黙らせ、暴力によって抹殺する思想であり、中国は今後も、そうした体制を継続しようとしているとも読める。

 文革の原点は、1950年代末の「大躍進」にあったのだが、「大躍進」の原型はスターリンが1920年代末に強行して失敗した「五ヶ年計画」だった。
 「五ヶ年計画」は粛清の嵐の序曲となったという点でも、文革と似ており、毛沢東はその意味でも、スターリンの忠実な弟子だっと言える。

 毛沢東は確かに、スターリンのやり方を忠実に真似ようとしたが、スターリン(及びコミンテルン)に対し従順ではなかった。
 国共内戦中の1935年1月、中国共産党は、遵義会議において、コミンテルンから派遣されたオットー=ブラウン(軍事顧問)や王明(コミンテルン中国代表)、博古(ソ連帰りの若手党員)らを実質的に更迭して、毛沢東が実権を握った。
 その後の毛は、スターリンから武器や資金の援助を仰ぎつつ(さらに表向きにはスターリンを神のように持ち上げつつ)、中国独自の革命戦略を模索していたふしがある。

 訒小平もじつは、モスクワ帰りの経歴の持ち主なのだが、コミンテルン派から排除され、1935年に復活するという経験を持つ。
 訒にとって、毛沢東は中国共産党の独自路線を確立させた指導者に見えたのかもしれない。

 江沢民−胡錦濤と続く現在の中国指導部は、訒小平によって敷かれた社会主義市場経済の路線を着々と歩んでいるように見える。
 レーニンの市場経済論に関し造詣の深い著者を招いて学術講演会を開いたりしているのは、市場経済と社会主義に関する理論化が必要だからにほかならない。

 出口の見えない混迷から抜け出してわずか30年で、世界で一ニを争う経済大国に成長した中国の国家的実力は、想像を絶するものがある。
 市民的自由の問題とともに、中国経済の動向も興味を持ってみていきたい。

(ISBN4-406-02960-5 C0031 \1000E 2002,12 新日本出版社 2010,3,7 読了)