文化大革命の渦中にあって、毛沢東らによって粛清された中国人民解放軍の指導者、彭徳懐の自伝。
自伝として発表するために書かれたものではなく、査問を受けるにあたって、彼が提出させられた、経歴書である。
ユン・チアンの『マオ』は、中国革命の否定面を克明に分析した本だったが、当事者である彭徳懐の記述には、ユンの見方と正反対の部分が多い。
『マオ』は、毛沢東の言動を知る人びとからの膨大な聞取りや参考文献から毛と中国共産党の歴史を描いているが、抗日戦争・国共内戦を生きた中国民衆の暮らしや肉声にはほとんど触れていない。
毛沢東自身がそもそも、貧困と無縁の人生を送った人間であり、実際のところ抗日戦争以前の毛沢東とは、マルクス主義の看板を掲げた一軍閥にすぎなかったと思う。
戦争指揮に明け暮れた彭徳懐の履歴書もほぼ、同様ではあるが、彭自身が貧農出身であり、彼にとっての戦争目的は本書に明確である。
軍閥の勢力拮抗の上に存立し、帝国主義諸国に利権を切り売りしつつ統一国家をめざそうとする蒋介石のもとで、中国民衆の苦難を解消することは、誰が見ても不可能だった。
一方、中国共産党はコミンテルンの末端だったから、社会帝国主義者スターリンの間接支配下にあった。
スターリンが考えていたのは、世界各地における革命運動を援助することではなく、ソ連の覇権を拡大することだけだった。
中国共産党が武装闘争を行うには、コミンテルンから武器や資金とともに、指導を受け入れるしかなかったのだが、毛沢東と中国共産党が魂までスターリンに売らなかったのは、中国民衆にとって幸いだった。
1935年1月の遵義会議を、『マオ』は、毛沢東が行った権力闘争の一部にすぎないと位置づけているようである。毛沢東が中国共産党の最高指導者であると認知されたのはこの会議においてだから、もちろん、そのような面も存在しただろう。
しかし現場の戦闘指揮にあたっていた彭徳懐の回想を読めば、ここは、中国共産党がソ連の手先から脱皮した、重要な転換点だったことがわかる。
『マオ』は、紅軍(のちの八路軍)は民衆からの略奪をこととし、内部では粛清のためのリンチが日常化していたと記している。
彭徳懐も、地主から資金を奪ったことや国民党軍から武器を奪ったことは認めているが、そのこと自体は当然で、怪しむにはあたらない。
彭徳懐は、軍事的な勝利を得るためには、将校・兵士の学習や、民衆への政治宣伝が重要だということを指摘している。
民衆からの略奪が日常化していたのであれば、『マオ』のいうように、民衆支配は恐怖にのみ依存しなければならなかっただろうが、彭徳懐の記述からは、そのような状況はまったくうかがえない。
上記の点以外にも、『マオ』と本書で正反対の評価の与えられた史実がいくつも見られる。
『マオ』の叙述が多くの典拠に裏づけられているのは確かだが、(ことによると意図的に)語り落としている部分も多い。
現在のところ、中国革命については、次のような展望を持っている。
国共第一次内戦・抗日戦争・国共第二次内戦において、中国共産党は、コミンテルンから一定の距離を置きつつ、民衆に依拠した戦いを行った。
中国共産党は全体として正しい戦略を持っており、権力亡者で謀略家の毛沢東は偶然、その党の指導者になった。
朝鮮戦争後の経済建設期以降、毛沢東は権力維持以外に関心をもたず、中国は、文革終了まで破壊と混乱のなかにおかれた。
彭徳懐ほか、誠実に中国革命に人生を捧げた指導者たちは、ほぼすべて、粛清された。
以上である。
軍事作戦を含めて詳述するという本書の性格上、中国各地の無数の地名が登場する。
参考になる地図も収録されていないので、これを追うのは不可能だった。
また無数の人名も登場する。
これらのうち、中国共産党の最高幹部以外の人については、簡単な索引を作りながら読んだが、そうでもしないと、固有名詞に圧倒されて、読む気が失せてしまうかもしれない。