1945年に白神山麓・花岡鉱山で起きた、中国人捕虜の蜂起が花岡事件である。
本書は、蜂起の当事者でもあった著者の口述をまとめたもので、1951年に刊行された初版の新装版である。
口述は、事件数年後に行われているので、一つ一つの記憶が具体的で生々しい。
全体を通して語られているのは、常人にはとても理解できないような不条理の数々である。
戦争とはこのようなものであるというなら、こんな不条理があっていいはずがない。
著者はもと八路軍兵士で、戦闘中捕虜になったのだが、花岡に連行された中国人のすべてが捕虜になった兵士だったわけではなく、本書登場人物の中には、市中でたまたま「皇軍」に拉致された人もいる。
著者らは、北京近くの収容所から移送船、さらに花岡鉱山の現場に至るまで、まともな食事も水もをほとんど与えられず、ほぼ連日に渡って強制労働とリンチに明け暮れた。
血を見ない日はなく、リンチに遭った同胞が片端から死んでいくのを、ひたすら目撃しつづける毎日だった。
中国人たちが送り込まれた花岡鉱山は、鹿島建設の経営による鉱山だったが、1942年11月の閣議決定「華人労務者内地移入ニ関スル件」に基づき捕虜986人が強制労働に従事させられ、うち418人が虐待等によって殺された。
本書の解説によれば鹿島建設は、捕虜を残酷に使役・虐待したのみならず、政府からそのことに関連した補助金まで受け取っていた。
著者らに直接手を下したのは、輔導員と呼ばれる鹿島の社員だった。
花岡における輔導員らの立場は、奴隷の現場監督に等しく、気にくわない中国人を棍棒で半殺しにするなど、日常茶飯事だった。
ちなみに、彼らの行動原理は「皇軍」のそれと全く同じである。
蜂起の引き金になったのは、食事をほとんど与えられないなか、山に入って草を食べた人に対し、輔導員が、他の捕虜たちの前で、焼けた鉄棒を足に押しあてるという懲罰を行ったことだった。
このリンチの直前には、一部の捕虜に仲間へのリンチを強制するという事件もあった。
蜂起は失敗した(輔導員3名と中国人雇員1名が殺された)が、まもなく敗戦となったため、裁判で死刑判決を得た耿諄を始めとする中国人リーダーたちは解放された。
さらに、418人を虐殺した輔導員らに対する裁判では、4名が死刑などの判決を得たが、いずれも執行されず、ことの真相はうやむやにされた。
「日本」としては、「華人労務者内地移入ニ関スル件」に関する責任も、社の業務の一環とはいえ私刑により418人を殺害した鹿島建設の責任をも、ほおかむりしたかったところだろう。
犠牲となった中国人らは鹿島側の謝罪などを求めて交渉したが決裂に終わり、1995年からこの問題は法廷で争われることになった。
裁判で、東京地裁は時効を理由に原告の訴えを門前払いとして国家的無責任を追認し、控訴審の東京高裁では、耿諄ら中国在住の原告が納得しないまま、鹿島が謝罪しないという内容の「和解」が成立し、花岡犠牲者を重ねてむち打つ結果となった。
花岡に限らず、戦争中の中国人・朝鮮人強制連行や強制労働に対し、明確な謝罪と対個人賠償が終了しない限り、「日本」の責任は終わらないことを、知っておく必要がある。