「太平洋戦争」末期の1944年、グァム攻防戦のさなかにアメリカ軍に投降した兵士(階級は兵長)の戦記。
戦争の現実は、類書をいくら読んでも、鬱になる。
死や怪我の恐怖に加えて、兵士たちが異口同音に語っているのは、残酷な飢餓感である。
大義もない戦争に巻き込まれ、人格と生命を使い捨てられることほど、馬鹿馬鹿しいことはない。
それに加えてこの本は、愚かな上官に人格と生命を翻弄されることの苦痛を、これでもかと言わんばかりに語ってやまない。
人間である限り、著者に共感しない人はいないだろう。
ほとんどの人は、組織の中で生活しているから、例えば「愚かな上司」と遭遇するのは、とりたてて珍しいことではない。
とはいえ、職場は生活のすべてではないから、たいていの人は、どんな上司とも、なんとか折り合いをつけながら生きている。
しかし軍隊に「私」の領分は存在しない。
ゆえに軍隊では24時間、人格のみならず、生命さえも、上官に全面的に委ねなければならない。
だが、能力・人格において、生命を委ねることができるほどの人物など、めったにお目にかかれるわけがない。
新聞記者だった著者は、戦争の大義に殉じる気持ちは、当初からなかったようだ。
それでは、自分の人生を投げ捨てる意味を、どのようにして納得するのか。
著者は、日本という窮屈な社会で、家族が後ろ指さされずに暮らしていくために、自分の生命を放棄しようと決意した。
彼はさらに存命中、人格を放棄する理由として、全面的に服従するに足る上官を見いだそうとした。
ところが幸か不幸か、日本軍には、まともな先頭指揮もできず、横流し物資を私的に隠匿するなどの不正行為を平然と行いながら、部下に対し平然と死を強制するような、低水準の人物しか存在しなかったのである。
不幸だったのは、そのような上官によって無惨な死を強制された兵士であり、幸いだったのは、そのような上官を目の当たりにして早々に日本軍を見限り、アメリカ軍に投降した著者のような兵士が存在したことだった。
個人の戦記を読むといつも思うことだが、日本軍ほど最低の軍隊は、かつて存在しなかったのではないだろうか。
軍隊がまともであるためには、
・一切の私的な暴力を禁止する
・無意味な命令には良心を根拠として不服従であることを保障する
などが必要だと思われる。