洞川周辺の食や大峰の植物などについての覚え書きを記した書。
ネコヤナギ茶というのは知らなかった。
吉野の宿ではどこも、ほうじ茶を出すので、そんなものかと思っていたが、ネコヤナギ茶がほうじ茶と似ているのかも知れない。
栗を大量に拾う話は聞いたことがあるが、甘い栗は続けて食べると飽きてしまうのではないか。
大峰山脈東麓の川上村では、栗より栃を拾うとある。食するまで加工する手間が、栗よりずっと面倒な栃がより多く食べられるのは、主食に近い形で食べるには、癖のない食味のものがよいからだろう。
『新版 縄文人の末裔たち』には、岩手では、栗よりミズナラを好んで食すると記してあったと記憶する。
ホド芋とは、アピオス(アメリカホド芋)のことかと思っていたが、どうも在来のホド芋があるらしい。
今まで在来種ホド芋を見たことがないので、洞川あたりの河原にそれが自生していたとは驚きだ。
植物についての記述も興味深い。
名高いオオヤマレンゲとはホオノキの一変種かと思っていたが、そうではないらしい。
ホオノキのように高くならず、香気豊かな花とのことだ。
これを読んで俄然、オオヤマレンゲの花を見たくなった。
5月の連休頃がよいらしいが、そのころに関西に出かけるのは、気鬱である。
大峰にクロユリが自生していたという記述については、眉唾だと思う。
クロユリだろうがミヤマクロユリだろうが、大峰に自生するはずがない。
記録に残っているという大峰のクロユリとは何だったのかが気になるが、おそらくバイモの黒っぽい個体だったのではないかと思う。
修験道や吉野・熊野修験については、これから勉強を始めたいと思っているところなので、大いに興味深かった。
修験に関する考証で、最も気になるのは、史実と伝説との境界が不明確な部分である。
種々の古記録は、批判されることによって記録としての価値を発揮する。
史実と史実でない部分をいかに腑分けするか。
一見、荒唐無稽に見える記述から、どんな史実を看取するか。
「・・・といわれる」あるいは「・・・とされる」という書き方は、<・・・>という記述の史実性の判断を放棄した書き方に思える。
史実であるか否か不明な前提の上で考察を積み上げても、考察の正当性は担保されない。
できれば、胸のすくような史料批判を伴う考察を読みたい。