荒唐無稽だったり、言行不一致だったりすることが多いような気がして、宗教者の説法は、嘘っぽく聞こえる。
これは、説法に限らない。学校の先生のお説教など、その最たるものであり、自分自身、他人のことなど言えた義理ではない。
それにしても、カネの亡者みたいな坊主の説法など、聞きたくもないというのが本音である。
それでは、生き方や人生の処し方に関する賢人の言に関心がないかといえば、そんなことはないつもりである。
現に、修験本宗の高僧である著者の説法集には、共感できる部分が少なくなかった。
修験本宗についてほとんど理解していないのだが、本書を読む限り、非常に柔軟な教義だという印象を持つ。
修験道そのものが、列島に根ざした山岳信仰に淵源を持つためか、まず理念ありきという教義ではなさそうだ。
信仰の目的は人により多様であるが、自然と一体化するとか人格の完成をめざすという直接的な目標は、誰にも共通する。
それらの目標は、宗派・宗教の違いをも超越しているはずである。
目標に至る手段のちょっとした相違に目くじらを立てて、他宗・他教の誹謗に熱心な宗教など、うんざりだ。
山岳信仰と仏教・神信仰とが混然となった修験道だから、信じ方のあれこれに対し、寛容なのだろう。
目標に至る複数の道を認める寛容さは、教義の合理性につながる。
もちろん、無神論的な意味での合理性ではない(そもそも無神論は神の不存在を証明できない点で合理的とは言えない)。
ここでは、人の心のありようはどのようであるべきか、人の言動はどのようであるべきかについて、誰にも納得できる教えが説かれている。
つい先日、無責任の最たる人が選挙のキャッチフレーズに「責任力」などと言い始めて、こちらがうろたえてしまったが、自分にできないことを他人に求めたり、無意味に自分を虚飾するのは、どこかに無理がある。
問題は自分の心とどう向き合うかであり、どんな権威をバックにつけるかではない。
列島の他の宗派・宗教には、そうした信仰の本質があまり感じられなかった。
易行・苦行を問わず、自然の中で自分を見つめる修験道の大らかさとしなやかさを感じることができて、さわやかな読後感を持った。