近藤市太郎氏というへら釣り師の伝記。
へら釣りをしたことがないのだが、どんな釣りでも、釣りは奥が深い。
サカナを知り、自然を知らねば、サカナを得ることは出来ない。
サカナがいないならともかく、いるサカナが釣れないとすれば、何かが間違っているのである。
どんな素人でも、何もわからずに釣っている人はいないから、どこが間違っているのか、考える。
たいていの場合、釣れない理由の一つや二つは思い当たるから、次には何らかの対策を打つ。
ちょっと思いつく程度の工夫をしない釣り人はいないが、その程度の工夫でサカナが釣れるはずもない。
かくてまた、対策を考えることになるのだが、ほとんどの場合、結果に大差はない。
従って、誰もが思いつく程度の工夫など、ほとんど意味をなさないという結論に至らざるを得ないのである。
そこを突き破ることができる釣り人が、釣りのなんたるかを語ることができるのである。
近藤市太郎氏は、職漁師ではない。そもそもへら鮒は食対象魚ではなく、ゲームフィッシング対象魚である。
失礼な表現だが、氏はいわゆる「釣り馬鹿」の一人である。
余暇に釣りを楽しむ程度では、釣り馬鹿の域に達するなど不可能だ。
時間・財産など、人生のかなりの部分を釣りに注ぎ込まねばならない。
これは結局のところ、人生をどう生きるかという問題である。
本書がややファナティックにさえ思える筆調を帯びているのは、著者自身が釣り馬鹿予備軍の的存在だからだろうか。