吉住友一『お山の大将三十年』

 高校山岳部顧問はどうあるべきかについて記した書。著者は三重県の高体連や山岳連盟の役員をされた方である。

 勤務先の山岳部顧問を命じられてから、今年で5年目だ。
 ここまでのところ、重大な事故や遭難を引き起こしていないのは、幸運というほかない。
 山行直前に熱を出したまま山に入ったことが一度だけあるが、それ以外に、自分の体調管理のまずさから生徒諸君に迷惑をかけたことがないのも、幸運だったと思っている。

 本書を読んで、高校山岳部というものが戦後、主として何を目標に活動してきたのかが、うかがえるようになった。
 もっとも、ここに書いてあることが、日本全体の傾向を示しているとは限らないが。

 戦後間もなくから昭和30年代までは、山が好きで知的好奇心やチャレンジ精神も旺盛な、少数の優秀な生徒が集まって、先鋭的な登山を行っていた。
 本多勝一氏の『旅立ちの記』は、その時期の高校生が書いた山行記としては、最高レベルの作品だと思う。
 社会的には、ヒマラヤや国内の岩壁に挑戦する人々を頂点として、大衆的な登山ブームが起きていた時期と符合する。

 昭和40年代になると、文部省や教育委員会から高校生の先鋭的登山活動に対する規制がかけられるようになり、高校山岳部は氷雪・岩を避けるようになった。
 とともに著者の勤務校では、軟弱な不良生徒が山岳部に蝟集し、生活指導に骨を折る羽目にもなったらしい。

 20名を越えるようなパーティでの登山は、経験的にまず、不可能である。
 仮に1人のメンバーが体調を崩す可能性を10%とすると、10人で100%、20人いれば200%となる。
 体調不良者が出た場合、該当者のみが下山するか、若しくは全員が撤退するかという判断を迫られる。

 生徒をつれていく場合もちろん、本人だけを下山させるわけにはいかない。
 症状にもよるが、重い場合はもちろん病院に搬送しなければならないし、軽い場合でもバス停なり駅まで送ってやらなければならない。
 山中で症状が発生した場合、引率の顧問が少なくとも1名、該当者と共に下山のやむなきに至る。
 となれば、残った顧問がその後は全て指導し、危険や問題が発生した場合の対応にあたらねばならない。
 残った顧問が1名では、もし何か問題が起きた場合、自力での下山が困難になる可能性が高い。すなわち、遭難である。

 当時の著者の苦労は察するにあまりある。
 40年代後半には加えて、必修クラブなる制度が始まり、顧問を悩ませたらしい。
 この時代以降、先鋭的に活動する部が激減し、高校山岳部は、ハイキング中心の活動へと変わっていく。
 その流れは、今も変わりない。

 著者は、三重県でのインターハイや国体の準備にも奔走されている。ごくろうさまである。
 自分も、インターハイの手伝いをさせられたが、ヤレヤレ懲りたものだった。

 埼玉県高体連でも行われている各種登山大会は、活動の視野を広めたり、登山にかかわる技術を習得するきっかけになるという点では、十分に意義があると思うが、単なる行進練習みたいな大会になっては、多くの生徒にとって単に苦でしかなく、それが登山だということを学ばせてしまっては、罪作りなことである。

 高校生の登山について一家言を持つまで顧問を続けることができるかどうかはわからないが、

(イ) 安全を積極的に追求する
(ロ) 楽しい活動を行う
(ハ) 自然や歴史に親しむ

などを目標にして、今少しがんばってみたい。

(ISBN4-635-17011-X C0075 P1200E 1983,12 山と渓谷社 2009,8,13 読了)