明治〜大正〜昭和戦前期にかけての高知県での釣りを描いたエッセイ。
杉浦清石さん以外の、現代の釣りエッセイが今ひとつと思えるのは、サカナと川しか見ていないのではないかと感じられるからだろう。
町から渓流あるいはアユの川に出かける人の多くは、自動車を使う。
自動車とは一種の異次元空間であり、深山・渓谷の中に出現した都会である。
エンジンさえかかれば、スイッチ一つで国内外の情報が得られ、雨や雷や野生動物の恐怖から逃れることができ、一時間内外で町へと下山することができる。
しかし、自動車を使うことによって、見えなくなるものが多い。
ここに描かれているのは、自動車のなかった時代における、遊漁のようすである。
職漁師と遊漁者とが交歓しながら、互いの領域を尊重しつつ、サカナに挑んでいる。
竿とビクをかついで電車・バスを乗り継ぎ、釣り場に向かう人は今や、尊敬に値する存在だが、著者の場合、時代が時代だけあって、ほとんど徒歩での釣り旅だった。
大地主で、生活に追われることがなかったから可能だったのだろうが、山奥の集落に宿を求めて竿を振り歩いた話ものっている。
伊予との国境の渓流釣りは、宮本常一氏が民俗調査で歩かれた地域とも重なるのだが、そこに出てくる人々の山暮らしはまさに、宮本氏の世界そのものである。
本書に出てくる釣りのうち、古いものは明治期の釣りである。
著者が子ども時代に体験した最も主要な対象魚はウナギだったようだ。
土佐のウナギ釣りに関する数篇を読むと、ウナギ釣りが非常に高度な山里の文化だったことがわかる。
釣れないより釣れた方がよいから今は、軽量で強靱なカーボンロッドや極細・強靱なナイロンラインを使わないわけにはいかない。
批判精神の薄弱な釣りマスコミは、売るために釣り場を曝し、釣法を喧伝する。
それにのせられて釣るのは、やはり寂しい。