釈迦は、紀元前6〜5世紀にインドに生きた人物であるから、その生涯を歴史的に明らかにするのは、ほぼ不可能であろう。
高校時代に読んだヘッセの『シッダールタ』をはじめ、彼の教義を評伝風に描いた作品は多いが、釈迦の実像にどれだけ迫れているかは、よくわからない。
歴史に史料批判は欠かせないが、釈迦の時代の史料は乏しいから、伝説や誇張に満ちた原始仏典の記述から信用するに足る部分を摘出し、再構成するという作業が必要になる。
そのためには、釈迦の思想に関する深い理解はもちろん、古インド言語や古インド哲学についての知識が必要だろうから、ハードルは高い。
本書は、それらのハードルを取り除き、生身の釈迦の実像を示してくれる、それこそありがたい本である。
これを読むと、イエスなどと違って釈迦はあまり、一般大衆の前で説法をしていない。
彼の言葉は、職業的な哲学徒だった修行者向けに語られており、聞くものを惹きつける巧みな比喩に富んだイエスの言葉とは対照的に、難解である。
また、釈迦自身はイエスやムハンマドと違い、大衆の救済を意図してもいないようだ。
釈迦の思想自体は、日本の仏教より、はるかに日本オリジナルな信仰である修験道に似ているかもしれない。
彼は、市中を歩くことより、森の中の大樹の下で瞑想することを好んだ。
それは、雑音や日射しを避けるためだったかも知れないが、ヒトが考える場所として最も適しているのはやはり、森の中なのだろう。
修験者は、森林中の岩や滝に超自然的なパワーを見いだし、そのパワーと自己を一体化することによって、安心立命の境地に至ろうとした。
修験者が得ることのできる真理は、凡人の到達できるところではない。
釈迦は、自分の哲学を体系的に語っていない。
仏教は、断片的に語られた釈迦の言葉を潤色し、事実関係をも修飾した上で、体系化されている。
従って、釈迦の真意をどのように解釈することも可能だった。
日本史上にあらわれる仏教各宗派の言説の優劣を論じるのは無意味でないが、いずれが釈迦に本意に沿うかという議論は意味をなさない。
本地垂迹説は、荒唐無稽に聞こえるかも知れないが、他の宗派とかけ離れて現実離れしたものでもない。
それでは、釈迦の教えは空疎かといえば、決してそんなことはない。
本書にあるように、現実の一人一人の人間をあるがままに見、よく話を聞き、理想を説く包容力は、確かに魅力的だと思う。