ここに記されている高度経済成長以前の日本列島の生活は、基本的に江戸時代後半以来の生活を継承していたと思われる。
本書は子ども向けに書かれているようだが、列島における行事や暮らし方の由来や意味について、わかりやすく解説している。
ここでは、関東・関西を問わず、列島の農山漁村のなりたち・暮らしが語られている。
(北海道を除く)日本列島の民は、民族的なまとまりを基礎とし、国家によるおおむね一元的な支配を受けていたという意味で、日本人と概念づけられ得る。
著者の記述も、日本人の旧来の暮らしとはいかなるものだったのかを、明らかにしようとしている。
しかしどうも、暮らしの面から「日本」的な特徴を抽出するのは困難であるばかりか、あまり意味がないように思う。
それほどに、日本列島の暮らしのありようは多様なのである。
例えば秩父事件の研究において、蜂起の主体を「農民」と規定するのは明らかに間違いである。
自由民権思想の異常発酵をみた村々を「農村」とか「山村」などとひとくくりするのにも、無理がある。
そんなことを言っては概念が成立しないといわれるかも知れないが、中途半端な概念化によって、歴史の実像がのっぺらぼう化するより、より多くのミクロ的実態を明らかにした方が、豊かな歴史が結像するのではないかと思う。
秩父地方では、焼畑村落を「サス」と呼ぶ。「サス」地名は山の中腹に成立した村落に多い。
ところが本書には、「ソウリ」という地名もまた、焼畑を意味すると書いてある。
秩父には「サス」と「ソウリ(もしくはソリ)」地名が混在する。
中には、隣接する集落の片方が「サス」で片方が「ソリ」だったりすることもある。
とすれば、これらはいずれも焼畑村落を意味する呼称でありながら、意味を異にするのである。
「サス」とソリ」の違いは何か。
それを解明するすべは今や、残されていない。
「ふるさとの生活」が消滅してしまったからである。