帯に「再入門への招待」とある。
太宰の生涯を簡単に追いながら、オムニバス風に作品を紹介している。
太宰の本は押し入れの奥深くにしまい込んであるので、にわかには出せないのだが、随所にある作品の引用はたいがい、記憶に残る文章ばかりだから、記述の意味を汲むのに苦労はしなかった。
この本を読んで、太宰という作家が希代のエンターテイナーだということに、改めて気がつく。
文章も構成も主題も、いずれも読者を十分に楽しませることができるよう、計算されている。
その計算が、人によっては、わざとらしくて鼻につくところでもあるが、文芸が文章による芸、すなわちエンターテイメントであるならば、むしろ当然のことともいえる。
この本を読んでみると、さまざまな仕掛けがほどこされ、熟成された作品は、「富岳百景」以降のようだ。
デカダンス的な印象の作品と、(少なくとも表面的には)落ち着いた生活とが表裏の関係にあったというのは、一部の愛読者には納得いきかねるかもしれないが、この時期の太宰はしっかりと、「書くことを職と」していたようだ。
すなわち、人間の不条理をさまざまに具象化して見せはするが、それを自ら演じて見せなど、していない。
文字どおり晩年(とはいえずいぶん若いのだが)となった戦後に、彼の生活は再び混乱しはじめるが、それとて初期の混乱とは異なり、帰るべき家があってのデカダンスであり、片方の足は常に家にあったようだ。
敗戦前後から自死までの作品の展開はしごく順調で、読むものをいっこうに飽きさせない。『人間失格』はあたかも彼の遺書であるかのような印象があったが、十分に計算され、完成された名作であると思う。
作品的な行き詰まりをまったく感じさせない状態での自死は、残念なことだったと思う。
命さえあれば、例えば『津軽』のような端正でかつ、彼らしいアフォリズムを随所に散りばめた佳作を味わうことができただろう。
価値観の転換期に彼は、内実が伴っていないにもかかわらず、戦前的価値を軽薄に否定する時流を、嘲笑してみせた。
その先には、何があったのか。
可能性はまだまだあったのに、という思いが、やはりある。